子供大好きRUKAの雑記帳
by RUKA
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自分の姿を持つ人持たない人
服とズボンいつも同じ服を着て、同じズボンをはいて、いつ見ても代わり映えのしない人。
なにも服が一着しかないわけじゃあない。同じような色、同じようなデザインの服を何着も持っているだけ。そういう人はとかくセンスがないとか、ダサいなどと言われがちだ。

だがその姿は、オリジナルとまではいかないが、それなりに自分というキャラを形作っている。
これが自分だという確固たる思いの中では、おのずと行動にも責任を持つようになる。

周りにいるまったく関係のない人々の頭にも、自然とそのキャラが残る。だがどこの誰かは知られない。名前も知られない。ただ「あの人よく来るね」とか「先週もいたね」と、その程度の認識しかされない。だがそれがイイ。

これはネット上の多くの個人サイトに似ている。作者がどこの誰かはわからなくても、どのような人かは次第にわかってくるし、興味を持つ人が増えれば見る人も増える。
そうして人の記憶に残り、何か事が起きれば、記憶したほうもされたほうも対処しやすくなる。

ネットの匿名性は悪だとも言われているが、その匿名には2種類ある。
真摯な発言をおこなう上でのリスク回避のため、ネットにもうひとりの自分を形作る匿名性。
そして、不真面目な発言で人を困らせることを目的とし、自分を見えなくする隠れ蓑としての匿名性。
規制するのは後者だけでよいのではないだろうか?

掲示板に書き込むたびにハンドルを変えたり、キャラを変えたり、別人になりすましたり、そういう人は実社会でも「自分の姿」を持たないのだろうか?
気分によって様々な格好をするオシャレさんは、ネットでの交流もカジュアルなのかもしれない。

しかし人は、自分のキャラを固定したときに、発言や行動に責任を持てるようになるのだと思う。
これは実名であるか匿名であるかは関係ない。
その人がその人らしく見せているかどうか、それだけ。
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by rukachas | 2012-06-15 21:15 | Comments(0)
通らぬ要求を通そうとする人
イライラさん今月27日に行われたボクシングWBCフライ級王座統一戦は、チャンピオンの亀田興毅が挑戦者ボンサクレックに判定で負け、初防衛に失敗した。
最終ラウンドの終了時点で多くの人がボンサクレックの勝ちを確信し、3人のうち1人亀田寄りだったジャッジに疑惑の目を向ける人もいたほどの、実力差がハッキリ出た試合だったように思う。
ところが試合が終わるとすぐ、セコンドライセンス無期限停止中であるはずの亀田選手の父親が試合結果にクレームをつけた。関係者を呼び出し、採点がおかしいと恫喝した。

親は自分の子が可愛いもの。どんなに不細工な子でも可愛く見え、どんなに不器用な子でも出来たことを褒めるもの。
しかしこの父親の怒りは我が子への愛情によるものではないことは明白だ。自分の頭にある青写真どおりの結果にならないこと、あるいは自分たちに不都合が生じることに対しての反発でしかない。

この父親がやるべきは負けた息子への慰めと、次の試合に向けての励ましだったはず。それが日本ボクシングコミッションに牙を向いてまでの猛抗議、そしてなんとWBCへ再戦要望書を提出する意向まであるという。

正々堂々とやれば、勝つこともあれば負けることもある。負ければ悔しいが、同時に相手の勝ちを褒め称えることもできる。正々堂々とやるということは、自分と相手を対等に見るということ。(レベルの差を否定するということではない)
ところが他人を対等に見ることができない者は、自分の要求を通そうとする高慢な気持ちと、その要求を受け付けない者への怒りが、そうでない人に比べて高まりやすい。

私の知っている人に、同じような性格の人がいる。
いつもはそうでもないのだが、たまに電話をかけてきて、こっちが簡単には受け入れられない要求をしてきたりする。
それは無理だよと丁寧に断れば、そのときは一旦引き下がるものの、自分の予定が狂ったことに対する怒りは治まらない。まるでこっちが断ったことで迷惑が生じたかのように被害者意識を持ってしまう。

予定を的確にこなすために先々まで計画を立てるのは良いことだが、その計画の中に他人の行動を勝手に含めてしまう人には困ったものだ。
いや、親しい仲なら多少含めても良いだろう。だが相手にもイエスかノーかを選択する権利はあるのだから、希望と反する言葉が返ってくることは当然想定していなければならない。人間を意のままに操れる神様ではないのだから。

まぁ俗にいう「自分を中心に地球が回っていると思い込んでいる」という人だが、他人の感情を視野に入れない計画を立てる人ほど、その計画は分岐点さえないずさんなものであり、無計画であることとなんら変わりはない。
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by rukachas | 2010-03-29 21:43 | Comments(0)
「嫌い」お断り
敵?味方?「私は人に嫌われたことがない。私を嫌った人がいたとしても、私は嫌われてはいない」
こう書くと「なにワケのわかんないこと言ってんの?」と思うだろうが、そんな気持ちが大切ではないかというお話。

嫌われたと思うことは、人の「嫌い」という感情を自ら受け入れてしまうこと。するとそこで「嫌う者・嫌われる者」という関係ができあがってしまう。
私を嫌う者は嫌いだ、ということで自分も相手を嫌ってしまい、これが人間関係の悪化の始まり。

だが、たとえ相手に「嫌った」という意識があっても、こっちが「嫌われた」という意識を持たなければ物事に対して前向きになれる。
もちろんストーカーのように、相手に被害を与えておいて嫌われていないと言い張るのはおかしなことだが、人からどんなに叱られようと文句を言われようと、反省はしても「嫌われている」という悲観の気持ちは持つべきではない。

私の周りで言えば、会社で私に文句を言っていたあの人。メールで小言をこぼしていたあの人。面と向かってヒステリックに叫んでいたあの人。みな私に言いたいことがあったのであって、私を嫌っているわけではない。
批判は批判として受け入れ、怒りは怒りとして認め、愚痴は愚痴として聞いてあげる。そのうえで「嫌い」という感情だけはシャットアウト。そうすればその人との関係が悪化することもない。

しかしそう思えるためには、自分も人を嫌わないことが条件だ。
だからこそ欠点もある。いがみ合う仲にはならないが、気持ちが伝わりにくいという欠点が。
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by rukachas | 2009-12-15 21:35 | Comments(0)
ひとつ貶して二歩下がる
色、いろいろ人間の中には、他人を貶す(けなす)ことで自分の体裁を保っている人がいる。
自分は偉いんだ、あるいは常識人なんだと思い込み、自分とは違う意見の者を変人扱いし、自分がしないことをしている者を頭のおかしな人間だと見下し、議論・討論は好きだが口を突いて出るのは筋の通らない反論ばかり、そんな人はよくいるもの。

他人を罵ったり貶したりする人は、じつは自分のほうが上手くいっていない人であることが多い。自分に不満がなく順風満帆な人生を送っている人は、いちいち他人に腹を立てたりはしないものだ。

他人がしたことで自分が迷惑を被ったのなら、相手に対しての批判は大いに結構。しかし批判と貶しはまったく違う。
貶しは差別の心がさせるもの。すなわち他人を貶している者は、多かれ少なかれ差別的な心も持ち合わせているということ。気に入らないという感情は被害ではない。

人はなぜ人を貶すのか?
生活なり夢や希望なりが上手くいかず、自分のランクが落ちてきたと感じたとき、一部の人間はまず他人のせいにし始める。やれ政治が悪い、社会が悪い、家族が悪い、家柄が悪いなどと。
そして次に、他人を貶すことで自分の心の中で相対的に自分のランクを上げようとする。たとえ落ちぶれても、他人を馬鹿にすることで「自分は馬鹿にされる側ではない、する側だ」という意識を保とうとするわけだ。

しかしこれは哀れだ。他人を貶して自分の体裁を保つなんて、第三者から見てこんな哀れなことはない。
人はみな十人十色。色はそれぞれ他の色に影響を与えないし、他の色が不満に思うこともない。赤は「赤であるべきだ」と青に主張はせず、緑はピンクを変だと笑いはしない。

他人の色が気に入らないという人は、自分の色を客観的に見ることから始めよう。さあ、輝いているだろうか?鮮やかだろうか?思い描いたとおりの色だろうか?
もし自分の色が輝いていないのなら、それはそこに毒素が含まれているからだ。自己中という毒素が。

みんなが混ざれば白になる。他人の色を認め合い、そして自分の色をさらに輝かせよう。
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by rukachas | 2009-10-18 22:52 | Comments(0)
非選択結果表示マシン~!
選択の時私は子供の頃、と言ってもたしか15、6歳の頃だったような気がするが、ドラえもんの道具でこんなのはどうだろう?と考えていたものがあった。
それは「もしこっちを選んでいたらどんな結果になったのか?」がわかる装置。
小さい子が考えるほど突拍子の無いものでもなく、ある程度リアルな設定を思い浮かべていた。

この装置は、少し前の出来事で行動しなかったほうの結果が、映像として映し出されるのだ。
たとえばいつも通っている道を通らず、ほんの気まぐれで迂回したとする。その結果、自動車に泥ハネされれば「うわ~こっち通らなきゃよかった」と思うだろう。
だが本当にいつもの道を通っていればイヤな目に遭わなかったのだろうか?この装置を使えばそれがわかる。

もうひとつの例としては、初めてパソコンを買う人がMacとWindowsのどちらを買うか悩んでいたとする。結果としてMacを買ったが、すぐに気に入らなくなり「Windowsにしとけばよかった~!」と嘆いた。
そんな人もこの装置で「もしWindowsを買っていたら?」を知ることができる。「Macにしとけばよかった~」と嘆いている姿が映し出されるというオチもあるが、それはそれで諦めもつく。

あくまでも過去の出来事に対してであり、しかも自分の行動による結果しか調べることができないので、タイムマシンのように過去を変えたり、これから起こることを事前に知ることはできない。よってギャンブルや宝くじの役には立たない。
あとから「こっち選んで良かった~!」となるか、「あっち選んでりゃ良かった...」となるか、それを知りたいという好奇心を満たす目的にしか使えない。あまり実用性はない。

実際にドラえもんの漫画やアニメにこういう道具が登場したかは知らないが、後悔先に立たずと言うように、自分がしなかったほうの結果を知りたいというのは、誰もが思うことではないだろうか?

だが、人間は人生の中でいくつもの分岐を越えて生きている。つまり選択肢の連続。大きい小さいはあれど、まるで迷路の中を歩いているかのように常に行動を選ばされている。
その選択により、場合によっては不幸な人生を送ったり、人を死なせることさえあるだろう。そんな大きな後悔を背負う人は、この装置を使いたがるだろうか?

「別なほうを選んでいたらどうなっていたか?」を知ることができないからこそ、人間は後悔の念に押し潰されずに生きていけるのかもしれない。
この装置がいかに馬鹿げているか、私がそのことに気付いたのは、若い頃の後悔を思い出として話せる歳になってからだった。
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by rukachas | 2009-04-05 19:08 | Comments(0)
つまらないテレビ
テレビ今までも何度か書いてきたことだが、日本のテレビ番組はホントつまらなくなった。
今は1時間つけていることさえほとんどない。見ていても、あまりのつまらなさについ消したくなってしまう。
芸能人がワイワイと騒いだり、何か食べていたり、ペラペラ話していたり、とにかくただ人が何かをやっているところを映しているだけの番組。
つくづく「こんなものを見るために地デジが必要なのか?」って思ってしまうほど。

しかもテレビ局というのはすぐウソをつく。
「このあとすぐ」と言ってちっともすぐじゃなかったり、「このあと衝撃の結果が!」と言ってCMに入っておきながらCM明けに何もなかったり、スポーツの試合でさえ、さも大逆転があるかのようなテロップでCMに入る。チャンネルを変えさせないためには視聴者を騙しても良い、という精神をありありと感じる。

また、流行ってもいないものをさも流行っているかのように放送する、売り上げアップを狙った姑息な宣伝も目に付くし、情報番組やニュースにまで、印象操作、裏工作、演出という名のやらせが横行している。さらに言えば、それらが発覚した後の処理も不誠実だ。

だが今のテレビ番組にもわずかだが質の良いものもある。ネットで紹介され、世界の人々にも知られ人気となったものもある。
それらがみな高い制作費で作られたかというとそうではない。テレビ番組の質の低下を不況のせいにしているうちは回復は見込めないだろう。

質の低下の原因は、不況だからでもネットのせいでもなく、今のテレビ制作に携わっている人間がみな、テレビの多様化後に生まれた世代だからだ。
テレビ番組こそ最大の娯楽で、テレビ番組が共通の話題で、テレビ番組に夢を見てテレビにかじりついていた、そんな世代とは違う。

つまりはテレビ局の内部崩壊。これは時代の流れ。今のテレビ界は、昭和のお年寄りも平成の子供たちもどちらも満足させられない。20〜30代の人間の内輪ウケと数字取りだけで作られている。
テレビ評論家の今井舞氏は、テレビがつまらなくなった理由として「制作者がバカに見せるために番組を作っているからでしょう」と言ったそうだが、まさにそのとおり。

真剣に歴史に残る番組を作ろうとしている制作者が、安易に数字を取れる低俗バラエティーの制作者に駆逐されてしまっては元も子もない。
テレビ界にとっては、やっかいな時期に地デジ移行が重なったものだ。
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by rukachas | 2009-03-11 20:14 | Comments(0)
こんな夢を見た
睡眠ずいぶん前にもここで書いたが、私の夢はとてもリアルで、まるで実体験のように記憶しているものがいくつもある。風景だけでなく手触りや匂い、その場の空気感までもがリアルなため、実際に見たことのある風景なのか夢の中だけのオリジナルなのか、自分でも未だに分からないでいる。

印象に残っている風景は、大きな川沿いの土手、その土手のカーブに沿うように建てられた白い巨大な病院。片側が谷底になっている細い砂利道を歩くとやがて辿り着く小さな旅館。麦わら帽子をかぶった小さな子供がいつもたたずんでいる中学校の水飲み場。夜、ただひたすら家を探して走り回ると見えてくる、すぐ隣が山になっている不似合いな街の交差点。
まだまだいくつも印象に残る場所があるのだが、そのどれも一度きりの登場ではなく、数年間から十数年間をおいて断続的に登場している。つい最近も「懐かし~、これ子供のときに夢に出てきた場所だ~!」と感動している夢を見た。

このように私の夢には何年もあいだを空けて登場するお馴染みの風景があるのだが、これとはまた別に、これでもかというくらい頻繁に登場するシチュエーションがある。子供の頃から今までにもう何百回見たかわからないほど。
それは、見知らぬ町で迷子になって、焦ってはいないのだが途方に暮れているシーン。そして山道で車のブレーキが効かなくなり谷底へ車ごと転落していくシーン。
もし精神科の医者がこれを聞いたら、なんと診断するだろう?

リアルなのは映像だけでなく感覚も含めてなので、痛みや恐怖が記憶に残っている夢も少なくない。今までに見た夢でとりわけ不快だったものというと・・・
人間の胸部を外科手術していて途中でミスをし、それからは気ばかり焦り、やればやるほど裏目に出て取り返しの付かない状態になり、最後は人形のようになってしまった人を前に愕然としている夢。
経緯は忘れたが何故か拳銃で腹を撃たれ、あまりの痛さとショックでうずくまっている夢。
そしてこれは1ヶ月ほど前に見た夢だが、とっくに朝のはずなのに一向に夜が明けないことを不思議に思い、窓から身を乗り出して空を見ると、夜空がものすごい数の星に埋め尽くされており、それが弧を描くようにゴーッと動いている夢。(プラネタリウムの早回しのように)

こう書くだけでは「これのどこが怖いの?」と思われてしまうが、夢の中でリアルに感じれば恐怖もまたリアルだ。
最初に言った、何年もあいだを空けて登場するリアルな風景も、頻繁に見る道に迷うシーンもブレーキ故障のシーンも、その登場理由や正体さえ分からず、これもある意味怖さを感じる。

眠っているときに見る夢。その内容を人に語ると心の中を見透かされてしまいそうな気もするが、夢の内容を話し合うことでそこに含まれた謎や秘密を探れるとしたら、有意義なことかもしれない。
小中学校の先生方。生徒に「疑問詞が含まれた夢作文」を書かせ、それをみんなの前で発表させ、他の子たちがその疑問の答えを探る・・・という授業はいかがだろうか。
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by rukachas | 2008-07-08 23:25 | Comments(0)
至福のとき
コーヒーをどうぞ仕事で疲れてヘトヘトになって家路に着き、夕食を食べたら自分の部屋で一杯のコーヒーを飲む。
これが一日の中でもっとも安らげる時。

1990年のアメリカのテレビドラマ「ツインピークス」の中で、FBIのクーパー捜査官がレストランでコーヒーを飲みながら「毎日ひとつ、自分にご褒美をあげるんだ」と言うシーンがある。
私はこのセリフが非常に心に残っていて、それ以来コーヒーを飲むときは「これは自分への褒美なんだ」と考えるようになった。

ドーナツをほおばりコーヒーを美味そうに飲むクーパー捜査官の、物事ひとつひとつに対する深い考え方は、ドラマの進行とは関係なくインパクトの強いものであった。

私もコーヒーに限らず、食事が美味かったとか、街で珍しい花を見かけたとか、夕陽が綺麗だったとか、そんなことにもできるだけ感動するようにしている。
日常の何気ないことを心に留めると、日々のストレスも溜まりにくくなるから不思議だ。

一杯のコーヒーに有難さを感じ、足元に石が転がっていることにさえも意味を考える。どこの誰か知らない人の行為に一喜一憂し、周りを感じることで自分の座標を見失わないようにする。
簡単なことのように思えて、じつは結構難しい。

筋肉痛になった腕を軽くもみながら、感謝の気持ちで今日もコーヒーを飲む。
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by rukachas | 2008-05-22 23:41 | Comments(0)
石橋を 壊して渡る 困ったさん
石橋最近、こんなことがあって困った。皆さんの周りにも、こんな人がいませんか?

Tという人間がいて、私はTとずっと仲良くやってきた。ところが最近、そのTの身近にいるYという人間が、私にやたらとメールを送ってくるようになった。
内容はTに対する不満。まるでストレスを吐き出すかのように乱暴に書きつづられた、Tの悪態とそれへの不満。事を大袈裟に語っているのか、それともはなからウソをついているのか文面からは判断できなかったが、Yの人間性を考えるとそのどちらかであることは明白だった。
だが、来たメールに無視はできない。私は適当に相づちを打つかたちで「Tも悪い奴だなぁ」「Tにも困ったもんだなぁ」などと返事を書いた。

ところがYは、私からのそんな返事を「ほら、あんたこんなこと言われてるよ」とばかりにTに告げたようだ。自分が言い出しっぺであることは隠し、まるで私が悪口を言ってきたかのように伝えたのだ。
Tは当然のごとく、私を敬遠し距離を置くようになった。もともと非難される覚えがない場合、つまりYの言ってきたことがウソだった場合はなおさらだ。

私が誤解を解こうとコンタクトを試みると、Yは自分が言ったウソや大袈裟がバレるからだろう、一切のコンタクトを拒否しだした。今はYとTで、私を悪者あつかいだ。
たった一人の困ったさんの言動によって、せっかく築き上げてきた人間関係が簡単に崩されてしまう。それを痛感した出来事だった。

人間関係とは「石橋」のようなもの。小さな石を長い時間をかけて丁寧に丁寧に積み上げ、そうしてやっと人と人のあいだに「信頼」という橋ができあがる。
現代は頑丈な石橋でも叩いて渡るくらいの慎重さが必要なのに、中には金づちを持ってガンガンと橋を壊しながら渡る者もいる。前述したYのような人間だ。

いつ崩れるかわからない橋のほうがスリルがあるからだろうか?崩れてもまた作りゃいいと高を括っているのだろうか?それとも崩れそうな橋に美学でも感じているのだろうか?なんにしても、周りの人間の石橋まで壊してしまうトラブルメーカーには困ったものだ。
いわゆる「ドキュン」と呼ばれる人間もそのひとり。子供と先生のあいだに築かれた石橋を、いとも簡単に壊してしまうモンスターペアレント。企業と消費者のあいだの石橋を自ら壊してしまう横暴なクレーマー。地域の繋がりなど考えもしない、初めから石橋無用の非常識一家。

こんな人間はどこにでもいるものだが、自分はおろか周りの人間の石橋まで壊していたら、いつしか自分だけがポツンと孤立する、孤島のような生活になってしまう。
そうなってから慌てて橋を造ろうと思っても、相手ははるか彼方。人間関係など築けない。
皆さんの周りにも、こんな人がいませんか?
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by rukachas | 2008-02-15 23:21 | Comments(0)
暗闇での認識力
おめめどうでもいいことだが、自分で体験していながら何故そう感じるのかよく解らない、ということはよくあること。今回の話はそんな、不思議だな~と感じていることのひとつ。

夜に自分の部屋の灯りを消して、窓は雨戸もカーテンも閉め、外の月明かりや街灯の光さえも一切入ってこないようにする。室内の電気製品の小さなLEDさえも光らないようにし、室内を真っ暗にする。蛍光灯は消したあともぼんやりと光っているが、これは漏れないように覆うなりして、とにかく室内を完全な暗闇状態にする。

この全く見えない状態で、灯りが点いている時と同じ行動をとってみると、これが意外にも結構すんなり行えてしまう。
部屋の隅まで歩いてイスに腰掛けたり、棚の上に手を伸ばし物を取ったり、取った物を反対側の机の上に置いたりなんてことも難なくできる。スタスタと歩き回っても壁にぶつかることもない。多少動作は遅くなるが、ある程度の行動は見えている時と変わらずに行える。
これは、暮らし慣れた自分の部屋だけに、部屋の大きさやモノの位置、距離感をすべて把握しているからだ。

ところが不思議なことに、この状態で目を閉じるととたんに動きがぎこちなくなってしまうのだ。目の前に存在しているであろうモノと自分との距離感がまるでつかめなくなり、スタスタと歩くこともままならない。自分がどれくらい移動したかもピンとこない。両手を前に出していないと不安で、まさに手探り状態のぎこちなさ。
全くの暗闇なのだから、目を開いていても閉じていても状況は変わらないはず。ところが実際にこのような違いが起こるのは何故だろう?・・・と、いくつか理由を考えてみた。

勝手な憶測1
 人間は普段目を開いた状態で行動しているので、目を閉じると脳の活動が一部停止し、距離感をつかむなどの感覚が鈍くなる。
勝手な憶測2
 光が全くない空間でも、人間の瞳は何らかの反射波を受けており、それによってモノの存在を感じている。目を閉じるとそれを受けなくなる。
勝手な憶測3
 そもそも部屋が完全な暗闇にはなっておらず、わずかな光によって目が機能していた(無意識に見えていた)。目を閉じて初めて暗闇になった。
勝手な憶測4
 目を閉じることでさらに見えなくなったと思い込み、大きな動作ができなくなった。
勝手な憶測5
 ただの気のせい。

座頭市のように、目が見えないのに周りの状況を把握できる人がいるが、それはこれとはまた別な理由だと思う(後ろの気配まで感じてるからね)。それともそんな人も、目を開いている時と閉じている時では感じ方が違うのかなぁ?
さて、私の勝手な憶測の中に正解はあるのだろうか?
ま、あろうとなかろうと、ホントど~でもいい疑問だが。(^^;)
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by rukachas | 2007-06-09 03:02 | Comments(0)