子供大好きRUKAの雑記帳
by RUKA
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カテゴリ:言葉の話( 18 )
おおまいごっど!
c0039181_027919.jpg日本人は英語が下手だという話をよく聞く。
文法ばかり教えて肝心の発声を軽んじてきたかつての英語教育が原因だとは思うが、それだけでなく日本語と英語の成り立ちがまるで違うということもひとつの理由ではあるだろう。
日本語の深みを知れば知るほど、英語は習得しづらいものとなる。(個人の感想です)

そしてもうひとつ感じることは、世界の標準語であるがゆえなのか、英語を母国語とする人はたとえ自分が英語しか話せなくても、外国人(たとえば日本人)が話す英語に対して、多少手厳しいところがあるようだ。

近年は日本のアニメを見る外国人も増え、日本語を聞くためにあえて字幕版を好む人も多い。
ところがそのシーンに日本人が話す英語や和製英語が出てくると、その発音がとても面白く(あるいは馬鹿らしく)感じるようだ。
シリアスなシーンでもそれだけで笑っていることもある。

日本人は昔から、日本語を話す外国人に対してはそれがどんなに下手であっても、日本語を話しているという事実だけで感心し、「日本語お上手ですね〜!」と褒め讃えた。
ところが英語圏の外国人は、相手が英語を勉強したのだという事実などどうでもよく、発音の下手さが真っ先に耳についてしまうらしい。

つまり、日本語であろうと英語であろうと、日本人であろうと外国人であろうと、外国語を話すのが上手い人は上手いし、下手な人は下手。
ようは聞く側、受け入れる側の感情(ある意味人柄や国柄)によって、話す側の評価が左右されてしまっている・・・ということもあるのではないだろうか?

そんなことをふと思った。(´ω`)
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by rukachas | 2016-07-08 00:29 | 言葉の話 | Comments(0)
「起きる」と「起こる」
起きる昔から気になっていた事のひとつに「起きる」と「起こる」の違いがあった。
地震が「起きる」 地震が「起こる」
大災害が「起きる」 大災害が「起こる」
どう違うんだろう?どう使い分けるべきなんだろう?

と思っていたら、どうやらこの疑問は結構ポピュラーだったようで、Yahoo!知恵袋にも同様の質問があった。
そこでの回答によると、自然発生的なものには「起きる」を使い、誰かが「起こす」ことによって発生したものには「起こる」を使うらしい。
つまり「起こす」「起こした」という原因によってもたらされた結果が「起こる」「起こった」であると。

この回答はたぶん正解だろうし、なるほど!と思わせる。
だが自然現象でさえ神の意思だと言い張る者もいるだろうし、この世のすべてが因果応報であるという考えのもとでは、これだと何から何まで「起こる」になってしまう。

そこで私なりに納得のいく答えを考えてみた。
出た結論は単純だった。動作が目に見える形で認識できること、あるいはその様子を端的に表したものについては「起きる」「起きた」。
目には見えない現象だったり、複数の事柄を総称して表したものについては「起こる」「起こった」を使うのが一番しっくりくるのではないかと。
簡単に言えば、その主語の動作が目に見えてわかるものであるか、そうでないかの違い。

「地震」の場合は、地面が揺れる現象なので「地震が起きる」「地震が起きた」
しかし「災害」と言った場合は、様々な災いを総称した呼び名なので「災害が起こる」「災害が起こった」となる。

「風」の発生は空気が流れる動作なので「風が起きる」となるが、「台風」と言った場合は具体的な動作ではなく気象上の名称なので「台風が起こる」となる。

寒くて震えることは「震えが起きる」だが、二日酔いなどの胸焼けは動作ではないので「胸焼けが起こる」となる。

渋滞が「起きた」のは、交通事故が「起こった」ため。
暴動が「起きた」のは、インフレによる政情不安が「起こった」ため・・・等々。

と、私になりに考えてみたが、この使い分けが正しいのかどうかは正直わからない。
でもこれが自分にとっては一番納得がいくので、今後ブログを書く時はこの使い分けでいこうかなと、勝手に思っている。
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by rukachas | 2011-05-27 18:51 | 言葉の話 | Comments(4)
はるな愛は何を救うのか?
善意今年1月、地震で大きな被害を受けたハイチに千羽鶴を送る送らないで騒動になったが、過去には日本の被災地でも、明らかに不要なもの(ハッキリ言えば迷惑なもの)が送られてきたこともあったそうだ。

以前ここで「"しない善よりする偽善"という考えは間違っている」と述べたことがある。
該当記事「する偽善より、伝える善心」

偽善とは善の偽物であり、善いことをしているように見せかけること。実際には相手のためになっていないこと。
相手の心情を無視して不要品を送りつけたり、余計な手間を取らせるなど、相手が望まないことをおこなうこと。親切の押し売り、それが偽善。
相手のためになることなら、それは目的はどうであれ、偽善ではなく立派な「善」だ。

人の心とおこないを良いから悪いへ順番にならべてみると・・・

1: 善の心を持ち、善行をおこなうこと。
2: 善の心を持ち、何もしないこと。
3: 偽善の心を持ち、何もしないこと。
4: 偽善の心を持ち、偽善をおこなうこと。
5: 悪の心を持ち、悪行をおこなうこと。

この順になるはず。
「偽善でもいいからやろう!」という考えが当たり前になってしまうと、人の気持ちを無視した型にはまった行動だけが一人歩きしてしまう。
「正義の対極にあるのは悪ではない、もうひとつの正義だ」と言った人がいたらしいが、まさにそう。

今年の夏も日テレで24時間テレビ「愛は地球を救う」が放送される。
今回のマラソンランナーは、はるな愛さんだそうだ。
半ばバラエティー番組と化しているが、慈善団体への寄付のために募金をおこなっていることは立派な善行であり、チャリティーもマラソンもドキュメンタリーも人々に多大な感動を与えることだろう。

ただ、たくさんの感動の涙の中にひとつでも関係者への怒りの涙が混ざっているのなら、我々は「善とは誰に対して何をすることなのか?」を考え直さなければいけない。

そして「何をしないべきなのか」も、考えなければいけない。
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by rukachas | 2010-06-11 18:00 | 言葉の話 | Comments(0)
極太のボーダーライン
マルとバツこのあいだあるテレビ番組で、数人の主婦タレントが「どこまでなら浮気じゃなくて、どこからが浮気か?」という話をしていた。その中で「ダンナが他の女性とメールすることは浮気?」という質問があったのだが、2名の女性が「イエス」と当然のように答えていたのが印象に残った。

女性とメールしただけで浮気だと思われるなら、結婚とはなんと窮屈なことだろう。
私は現在数十人の女性とメル友になっているが、内容は子育てのことやお悩み相談がほとんど。アッチ系の話はまったくないし、ソッチ系の話で盛り上がることもない。文字どおりただのメール「友達」だ。
だがもし私が結婚して、その嫁が前述した女性タレントのような人だったら、私はアドレス帳から女性のメアドを削除しなくてはならないのかもしれない。

世の中には、法律やルールとして様々なボーダーラインがある。ここまでならOK、ここからはダメ(あるいはその逆)という基準がある。
だが困ったことに、ボーダーラインのライン自体が太すぎて、区切りが曖昧なものがとても多い。

喫煙と飲酒は二十歳から、自動車免許と成人映画は18歳から、と数字で明確に区切れるものは良いのだが、「どこまでが友達付き合いでどこからが浮気か?」「どこまでが親切でどこからがおせっかいか?」などは受け手の心情にもよるので、そのボーダーラインはあまりに極太だ。
道路の速度制限のように、法律で明確に決めていながらも多少の超過はOKというケースもある。

今年2月から導入された、未成年者が使う携帯電話での有害サイトフィルタリングサービス。蓋を開けてみれば結局上手くいかず各社とも苦慮しているようだが、これも有害と無害のボーダーラインが太いことによる。
だいたい明確な基準が無いものを明確に分けようとするから無理が生じるわけで、のちにディー・エヌ・エー、ネットスター、マイクロソフト、ヤフー、楽天のインターネット事業者5社は「青少年インターネット規制法案」に反対声明を出している。

思春期を過ぎた子供たちに携帯を与えておきながら、見て良い・ダメの振り分けをブラックボックス的におこなうやり方は、子供の好奇心をいたずらに煽るだけで教育的効果はほとんど無い。
何が有害で何が無害かは、親子で実際に話し合ってみなければ結論は出ない。なにしろ人によってボーダーラインの位置も太さもまちまちなのだから。

ところでこの「思春期」という言葉もかなり曖昧な意味だと思っていたら、じつは医学的には明確な基準があるらしい。女の子は胸が膨らみはじめたら、男の子は精巣の容量が4ミリリットルを超えたら思春期だそうだ。
女の子の胸はともかく、男の子のほうは外からじゃさっぱり分からないし、本人でさえ自覚できないぞ。
これは細いけれども見えないボーダーラインだな。
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by rukachas | 2008-05-14 19:41 | 言葉の話 | Comments(0)
する偽善より、伝える善心
善意いつだったか、どこかの掲示板で見た会話だが、マザーテレサが「人に尽くすことが私の喜びである」という意味のことを語ったという話を受けて、ある男性が「なぁんだ、結局は自分のためにしてんじゃん、偽善者だな」と、こんなことを言っていた。(正確な会話は憶えていないので、こんなニュアンスだったということ)
私はそれを見て、「偽善」という言葉をそういう意味で捉えている人もいるのかと、少々意外な心境だった。

たとえば、自分がキレイ好きだから近所の道端も掃除するとか、人に親切にするのが好きだから人助けするとか、そういうのは理由はどうであれ、偽善とは言わないのではないだろうか?
「偽善」という言葉を辞書で引くと、「善いことをしているように見せかけること」とある。つまり、一見善いおこないのように見えて、じつは悪いおこないであること、それが偽善だ。

独り暮らしのお年寄りの家を訪れて、床下がどうだ水道水がどうだと言ってバカ高い機材を売りつける訪問販売がニュースなどで取りざたされるが、このように、相手のためになることをしているように見えて、じつはちっとも相手のためになっていない、これを承知の上ですることを「偽善」と言うのだと私は理解している。

だから、人を助けたり親切にするのは、その理由がたとえ「自分がしたいから」であっても、その行動が人のためになっているのなら、それは立派な「善行」であり決して「偽善」ではない。
そうでなければ、善は無償の愛のみになってしまい、警察官や医師などを目指す者の志が空しく感じられてしまう。

ボランティア活動も身近な親切も、善行のもっとも理想的な形は「他人のためにしていることが同時に自分のため(喜び)にもなっている」という形だ。
人類は最小単位の家族から最大単位の国家まで、そうした善意の成り立ちによって発展してきたわけで、逆に言えば、自分の気持ちを犠牲にした善行は、表向きは他人のためであっても、その世界を決して良い方向には導かない。

それに関連したことだが、よく聞く言葉に「しない善よりする偽善」というのがある。
多くの人が納得している言葉のようだが、私はこれには反対の気持ちを持っている。偽善という言葉を「それは善の偽物であり、実態は善ではない」と捉えているからだ。偽善をおこなうくらいなら、善の心を持ったまま何もしないでいたほうが良い結果をもたらすと思っている。

もちろんその「する偽善」という言葉の多くが、「心のこもらない行動」という意味で使われていることは知っている。実際に見える形での結果を出すことが当事者のためなのだから、しない者よりもする者が評価されるのは当然だ。
だがそれは目先の目的を達することにはなっても、長い目で見てより良い世界を創り出すことにはならない。100年200年先の未来に、より多くのマザーテレサを創り出すことにはならない。
人類に本当に必要なのは偽善の心で行動することではなく、善の心に揺り動かされ行動すること。心を重視せず、行動だけでそれを良しとする「しない善よりする偽善」には、ある種の危機感さえ感じてしまう。

しかし「しない善」も、自分ひとりで完結してしまっては何も生み出さない。いくら善の心を持っていても意味がない。ではどうするのか?・・・伝えれば良い。親から子へと、新しい世代へと。
人の心はそう簡単に変わりはしない。遥か100年200年先を見据えて、大人から子供へと、さらに次の世代へと「人に尽くす価値」を伝授し、それに喜びを見いだす子を育てていけば、未来は必ず良い方向に向かうはず。

例えるならこう。偽物でもいいから宝石(に見えるもの)を持っていたいと思う者が増えれば、本物の宝石を持つ者は少なくなる。しかし、偽物を持つくらいなら本物への憧れを心に持てば良いと思う者が増えれば、偽物は増えず、本物の宝石はより価値を高める。
善と偽善の関係もこれと同じ。
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by rukachas | 2008-03-26 21:27 | 言葉の話 | Comments(0)
(笑)は本当の笑いか?
表情ネットの書き込みでよく見る、言葉の語尾に(笑)(爆)などと入れる表現、私はこれを過去一度も使ったことがない。
というよりも、わざと使わないようにしている。

11年前に初めてインターネットを使い、メールや掲示板やニュースグループを覗いたとき、まず最初に戸惑ったのが顔文字という使い慣れない表現だった。(^-^) や (^^;) などの単純なものでさえ、それらが混ざっている文章がとても奇妙に感じた。
だがこれはあっけないほどすぐに慣れた。顔文字を添えるだけで、喜怒哀楽だけでなく細かなニュアンスも伝えられる。これはとても便利だと感じた。
相手の言葉に対してのレスポンスも「へぇ~立派ですね~ (;’д’)」と「へぇ~立派ですね~( ̄ー ̄)」では、印象までも違ってしまう。これは言い換えれば、文章だけでは伝わらない微妙な感情を補足する、声の代わりとも言える。

ところが(笑)と入っている文章は、ただ「私は笑っている」と伝えているだけであって、どんな笑い方なのか?どういう気持ちの笑いなのか?それをまったく伝えてはいない。
しかも「笑う」の頭文字であるWを並べて相手を小ばかにしたニュアンスで使うこともあり、(笑)またはWという文字は使う意図があまりに多彩であるため、感情表現としては意味を成さないと思う。
他にも(爆笑)(苦笑)(ワラ)(ゲラ)などがあるが、大体において言えることは、語尾にこのような文字を入れている文章は、書き手は笑っているが読み手はたいてい笑っていない。

このような理由で、私は(笑)(爆)のような文字を付けないようにしている。顔文字も感情の的確さとしては微妙だが、「アハハ」なのか「ケケケ」なのかは何となく伝わるし、まぁイイかなと。
私もたまに語尾に(おいおい)と入れることがあるが、これは笑いの高等テクニック「ボケツッコミ」なので気にしないように。(おいおい)

笑いに限ったことではないが、書いた文章にそのときの感情を込めたいとき、本来ならどうするべきなのか?
一番良いのは、文章の中身を濃くすることだ。質の高い小説にも言えることだが、多くの語彙とその語意を的確に使い分ければ、読み手の頭には書き手の表情まで浮かんでくるものだ。

最近の子供たちの中には、学校の作文にまで顔文字や(笑)の字を付ける子もいるそうだが、これはネットやケータイでの文章入力が原因だろう。今や顔アイコンを入れたコミュニケーションが当たり前なのだから。
しかしこのように、文章のあとに感情を表すものを付け加え、読み手もそれによって感情を汲み取っていることが多いと、双方とも本来の文章力が育っていかないのではないだろうか?
これは子供に限らず大人も、そしてもちろん私にも言えることだが。
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by rukachas | 2007-12-07 06:23 | 言葉の話 | Comments(0)
COPY
コピーパソコンやインターネットの普及とともに、音楽や映像関係のニュース記事で「違法コピー」という言葉をよく耳にするようになった。
ネットオークションでソフトのコピーCDを売っていた者を逮捕とか、P2Pで音楽をアップロードしていた者をJASRACが訴えたとか、アメリカの動画アップロードサイトYouTubeが著作権侵害の温床になっているとか、このようなニュースでは違法コピーという言葉がキーワードになっている。

しかし私はこの「違法コピー」という言葉に、ど~も違和感を感じてしまう。いやべつに違法でないと言っているのではなく、言葉そのものに違和感を感じるということ。

文字通りに解釈すれば「違法なコピー行為、または違法なコピー品」ということになるわけだが、個人がするコピーに違法も合法もあるだろうか?
もちろん施してあるプロテクトを解除してのコピーは違法になるが、世間で言われている違法コピーのほとんどはこのことではなく、著作物のコピーを売ったり配布していることに対して言っているわけだ。

ということは、著作権法違反で逮捕された者がどの段階で罪を犯したのか、つまり違法な行為をしたのかというと、決してコピーした段階ではなく、それを売ったり不特定多数に配布・公開した段階で法律的にアウトとなったはず。
ならば「違法コピー」ではなく、「コピー品の違法販売、違法配布、違法公開」と言うべきではないだろうか?違法にコピーしたのではなく、コピーしたものを違法に扱ったという罪なのだから。

誰もが知っているとおり、パソコンは音楽CDを複製することができる。複製とまではいかなくても、圧縮したMP3ファイルなどを作ることもできる。もとのCDが市販されている著作物でも、個人的な用途ならコピーは違法ではない。
また、パソコンを使う上でソフトウェアのバックアップは必要不可欠だが、そのためのコピーも個人使用に限っては違法ではない。

それなのに「違法コピー」という言葉だけが一人歩きし、まるでコピーそのものが違法であるかのような印象を与えている。
たしかにコピーという言葉の印象はあまりヨロシクない。ブランド品の偽者や、他とそっくりな工業製品などは、真似をしたという意味でコピー商品と呼ばれている。

だが我々はコピー技術に多大な恩恵を受けていることも忘れてはならない。市販されているCDもDVDも、正確にはマスターではない。レコード盤と同じように、原盤をプレスして大量のコピーを作り、我々はそれを商品として買っているわけだ。
店に同じCDがたくさん並ぶのは、このような複製技術の恩恵だといえる。

個人的な複製もCD-RやDVD-Rなどにより、簡単におこなえるようになった。私は平沢進さんのCDは、1枚につきCD-R3枚にコピーしている。1枚はラジカセで聴くためのもの。もう1枚はパソコンで再生したりエンコードするときのもの。そしてもう1枚は人に貸すときのもの。
昔、知り合いに平沢さんの「AURORA」というCDを貸したら、見事にキズが付いて返ってきたことがあって、それ以来オリジナルは貸さないようにしている。

このように、記録メディアやハードウェアのメーカーは、我々に個人的なコピーの機会を与えてくれている。
著作権を侵害し違法となるのはコピー行為そのものではなく(プロテクトを外す行為はまた別)、コピーした物をどう扱うかによる。
だがコピー品の違法な販売や違法な配布をすべて「違法コピー」という言葉で語っている昨今の現状には、まるで個人的なコピーさえも悪いことなのだと世間に印象付けたいような、そんな音楽・映画業界の思惑を感じてしまうのだが、どうだろう?
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by rukachas | 2006-11-11 00:06 | 言葉の話 | Comments(0)
温故知新
書くブログはパソコンやネットがあるからこそで、一般的にはキーボードを打って文字入力するわけだが、それでも人はブログを「書く」と表現することが多い。
”書く”という言葉は「文字や記号を記す」という意味だから、ペンをカリカリと走らせる行為とキーをカタカタと打つ行為のどちらも「書く」と表現するのはべつに間違いではない。将来キーボードとはまた違うデバイスが登場したとしても、人は「書く」と表現していくと思う。

技術の進歩と共にモノが変わり、人の動作が変わっても、それを表す言葉をあえて変えないことがある。
たとえばうちの風呂は給湯器でお湯を入れるタイプだが、うちではそれを「風呂を”沸かす”」と言っている。以前使っていた風呂が、風呂釜に火を点けるタイプだったからだ。

さらに、浴槽にお湯なり水なりを入れる行為を「汲む」と呼ぶこともある。”汲む”というのは水などを「すくいとる」という意味なので、まったく逆の使い方をしていることになるが、昔は風呂桶に水を入れるには井戸や川から水を汲むことが必須だったわけで、たぶん親から子、孫へと代々伝わってきた言葉のなごりだろう。

「(テレビの)チャンネルを回す」、「ダイヤルする(電話する)」、音楽プレーヤがデジタルになっても早送りの反対は「”巻き”戻し」、デジカメプリントを店に頼んでも「”焼き”増し」。モノが変わっても表現は古いままのほうがどこか味がある。
もし将来、空を飛ぶ車が現れ、それが当たり前の世の中になったとしても、きっと「空を走る」という表現が使われるんじゃないかなぁ。
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by rukachas | 2006-01-23 21:43 | 言葉の話 | Comments(0)
愛 と 恋
LOVE愛と恋、英語ではどちらもLOVEだが、日本語でのニュアンスは大きく違う。

愛は人のために、恋は自分のために。
愛は与えるもの、恋は奪うもの。
愛は包み込むもの、恋は解き放つもの。
このままではいけないと思うのが愛、このままでいたいと思うのが恋。
「無償の愛」という言葉は聞くが、「無償の恋」というのは聞いたことがない。

愛という字は真ん中に心があるから「真心」
恋という字は下に心があるから「下心」
という話を聞いたことがある。
こじつけかもしれないが、なんとなく納得してしまう。

「愛は地球を救う」と題したテレビ番組があった。
本当に愛が地球を救うかどうかは分からないが、恋が地球を救いそうにないのは確かだ。
人は恋をすればするほど盲目になるのだから。

恋は地球は救わないが、人の足はすくうかもしれない。
あなたも足をすくわれないように、ご用心ご用心。
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by rukachas | 2005-10-12 23:21 | 言葉の話 | Comments(0)
納豆を食べたあと
納豆かけごはん納豆でご飯を食べたあとって、どうしてあんなに臭くなるんだろう?

いや、自分がじゃないよ。
食べたあとの食器をそのまま部屋に置いておくと、すぐに部屋中が臭くなる。
その匂いは納豆というよりも、まるで◯◯の◯◯◯◯。
におわなっとうとか言って宣伝している「金の粒」なら、多少はましだけどね。

納豆は好きだが、納豆くさいのは嫌い。
青色は好きだが、青くさいのは嫌い。
水は好きだが、水くさいのも嫌い。

逆もある。
ぬかみそは嫌いだが、ぬかみそくさい(所帯じみた)女性は好きだ。
カビは嫌いだが、かびくさい(古い)ことは好きだ。

両方とも嫌いなのは
酒と酒臭い、面倒と面倒くさいぐらいか。

両方とも好きなのは
乳と乳くさい・・・かな。(^_^;)
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by rukachas | 2005-10-10 21:15 | 言葉の話 | Comments(0)