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RUKAの雑記ノート(現在休止中)

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愛想のパターン化

愛想私がバイク通勤している大通りにとある店があるのだが、そこでは道路端に毎日誘導員が立っていて、お客の車を駐車場に誘導している。しかし会社に向かう私から見ると店が左側にあるので、対向車が右折して入るために、この誘導員によってこちら側の車の通行を停められることがよくある。

まぁ一旦停止する程度だからさほど困りはしないが、ちょっと奇異に感じたのは、その誘導員が停車させた車列に「さぁどうぞ」と発車を促すときに、いちいち丁寧なお辞儀をするのだ。それも直立で深々と頭を下げ、3,4秒くらいかけるような実に几帳面なお辞儀だ。(お辞儀し終わるまではジャマで通れない)
何ごとも丁寧なのは見苦しいことではないし、悪いことではない。だがただでさえ道路工事が多く渋滞気味な通りなのだから、もうちょっと素速く対処してほしい。(ー"ー )

このお辞儀には「お停めして申し訳ございません」という意味があるのだろうが、実際にこの誘導員にそういう気持ちがあるかどうかは分からない。だがたとえあるにせよ、このてのエクスキューズはこの人がするべきことではない。つまり「車に停まってもらってそのあいだに客の車を誘導する」という仕事をこなしているだけなのだから、いちいち詫びのお辞儀などする必要はないということ。
もし誰かしら詫びる必要があるのなら、それは、客の車を入れるために他の車の通行を一時的に停めなければならないような、そんな場所に駐車場を設置した店側の代表がするべきだろう。

企業が市民に対し一歩引いた態度を示すことは、角を立たなくするためには良い。だが詫びの気持ちを持つべき人物が詫びず、直接関係のない人物がパターン化した詫びの表現をすることは多々あることだ。
住民に反対されそうな事(マンションの建設など)をするにあたって「ご迷惑をおかけします」などという状況説明のビラをあらかじめ配ったり、顧客対応のアルバイトが、さも企業の気持ちを代弁するかのようにマニュアル化した謝罪言葉をならべたり・・・。

世の中には社交辞令的な態度が溢れている。気持ちの通わない挨拶も溢れている。少しぐらいできないようでは世渡り上手にはなれないのかもしれないが、本心を無視した愛想のパターン化だけは、たとえ社会的に要求されようとも避けたいと、私は思っている。
# by rukachas | 2005-02-28 23:57

長男と末っ子

独り遊び金曜の夜から甥っ子5号くん(5歳)がうちにお泊まりしていたんですが、残念なことに土曜日はかなり強い風が吹き荒れており、一日中家の中で過ごしていました。同年代の子がいるわけでもなく、オモチャがあるわけでもない。小さな子供は他人の家ではさぞや退屈でしょうね。

ところが5号くんは極めて建設的な子。自分から「何か楽しいことをしよう!」という気を起こす子で、私やオフクロが忙しくて遊んであげられないときでも、そこにあるものを使って自分で何かしら独り遊びをしています(大人が目を離しているわけじゃないですよ)。退屈だからといって人に依存ばかりはしていない子。
幼い頃の私がそうでした。今でもオフクロがよく言うのは、ひとりで遊んでいる私に「つまんない?」と訊くと「つまる~」と言ってもくもくと何かをしている子だったそうです。
私も5号くんも妹がいる長男。たしかスポーツチームの監督には長男が多いという話を聞いたことがありますが、自分から物事を統率したり、あれやこれやと試行錯誤する人は、長男長女に多いのかもしれません。

5号くんは、今日の昼にパパが迎えにきて、東京へと帰っていきました。しかしバトンタッチをするかのように、今夜もうひとりの妹が甥っ子4号くん(8歳)を連れてきました。明日どうしても用事があるため、オフクロたちにみていてほしいとのことで・・・。

4号くんは、退屈さへの反応に関しては5号くんとはまるで正反対。いつも人が遊んでくれるのを待っている子で「つまんないよ~」と言って泣いてしまうことさえありました。つまりは独り遊びができない。
4号くんは4人兄弟の末っ子ですが、私の末の妹も幼い頃はそんな子でした。物心ついたときから兄や姉がいて、遊びも上から提供されることが多い中で育ってきたため、ひとりになったときにどう遊んで良いのか分からなくなってしまうのでしょう。まさに末っ子らしさですね。
もちろん長男だから末っ子だからといって、必ずしもこうだとは限りませんが。

4号くんは先ほど私とお風呂に入って、ガンダムのオモチャで大はしゃぎ。10時半頃ふとんに入り、しりとり遊びをしているうちに眠ってしまいました。(^-^)
どちらの子も私と遊ぶのを楽しみにしているので、来たときは極力時間を作ってあげるようにしています。個々の性格の違いがよく分かるし、子供と遊ぶのって色んな意味で面白いですね。(〃゚▽゚〃)
# by rukachas | 2005-02-27 23:54 | 子供の話

枯れた木々を見上げて...

枯れた木々を見上げて..._c0039181_22192211.jpgうちの近所にはまだこんな風景がある。
近所といっても1kmほど離れているが、ぶらりと散歩するには良い距離だ。
ここには枯れ木が群れている。
寒空に肌を痛め、排気ガスに咳き込みながらも、気丈に優雅に生きている。

木々にはひとつとして同じ形のものは無い。だがこれを自然と呼ぶのには無理がある。
この木々は元々ここで生まれたのではない。人の手によってここに等間隔に植えられ、その瞬間から逆にここでの存在理由を植え付けられた。
春になれば深緑の葉を身につけ、家族連れや子供たちに憩いの場を提供するだろう。
だが動くことも許されず、居続けることも許されない木々たちは、さしずめ動物園の動物たちのよう。

枯れた木々を見上げて..._c0039181_22193031.jpg広場の中程にテーブルとイスが備えてあった。
木材を使った手作り品かと思っていたが、近付いてよく見たらイスは表面を加工してある合板。
テーブルに至っては、木の切り株に似せてあるだけのものだった。(材質は何?)

管理された森や林は自然なままに見えても、実は作られた風景であることが多い。
あたかも食品売り場にビタミン剤が並ぶかのように。
# by rukachas | 2005-02-26 22:21 | 動植物の話

ドリーム&ドリーム

夢の世界「夢」という言葉には、寝ている時に脳内で見る映像と、将来こうなりたいという願いの両方の意味がある。
英語でも同じようにこのふたつをDream(ドリーム)と言うが、かたや睡眠中脳内に勝手に流れる映像、かたや将来への希望、願望。あまり共通点のないこのふたつの事柄に、同じ名前を割り当てているのは何故なのだろう?
寝ている時に見る夢は、人の願望をあらわすことが多いということか?それとも、一攫千金やアメリカンドリームのような夢を持っていても、所詮は睡眠中の夢のように儚いということなのか?

私にとっては願望としての夢よりも、普段の睡眠中の夢の方がより身近に感じる。というのも、私の見る夢はとにかくリアルだからだ。
色のある夢を見たことがないという人もいるが、私は子供の頃から総天然色。しかも色だけでなく、明るさも音も匂いも味覚も触覚もある、ほとんど現実と変わらない夢ばかりだ。あまりに現実的なので、夢の中でこれは夢なのかどうか悩むことさえある。「これって全部夢だったりして、なぁんて、まさかね~」なんて思ってたらハッと目が覚めて「なんだよ、夢かよ~」って思ってるような夢を見ている、という夢を見ていたり・・・。ちょっと極端だがそんな感じ。「エルム街の悪夢」というホラー映画があったが、それに近い感覚がある。

もう随分と前だが、こんなことがあった。その日、夜遅くまでMacに向かっていたら、スウッと吸い込まれそうな眠気に襲われた。たまらずMacの電源を切ってすぐさまベッドに倒れ込み、そのまま眠ってしまった。
しばらくしたら目が覚めたので、そうっと薄目を開けてみたら、消したはずのディスプレイが点いたままになっている。「あれぇ~おかしいなぁ?消し忘れたのかなぁ?」と思ってベッドからムクッと起き上がり、机の前まで行ってディスプレイのスイッチに指をかけて、今度こそ電源をOFFにした。
・・・と、まさにその瞬間、もういちど眠りから覚め、自分はベッドの上。目を開けて机のほうを見たらMacもディスプレイもちゃんと消してあった、というわけ。もうどこからどこまでが夢だったのか?実際にした行動を夢として記憶してしまったのか?とにかくわけがワカラン出来事だった。
子供のころからデジャブーも何度もあったので、感受性が強いのかもしれない。

しかしこんな私でも、夢では未だかつて一度も見たことのないシチュエーションがある。それは、自分を客観的に見ている夢。つまりビデオで撮った映像のように、自分自身の姿を見ている夢だ。これはさすがに経験が無い。
これを現実に当てはめると「自分を客観視できない人」ということになるが、私は逆に、いつも人がどう感じているかを考えてばかりいるので、もしかしたら夢と現実の姿は正反対な関係にあるのかもしれない。

ということは、睡眠中の夢が超リアルな私は、願望としての夢は現実感が希薄ということか。
なるほど、このままではいけないな。映画「マトリックス」のネオのように、夢の世界でリアルな自問自答でもしてみようか・・・。
# by rukachas | 2005-02-25 23:55

毎日シャッフラー

毎日シャッフラー_c0039181_23321230.jpgiPod shuffleを使い始めて1週間が過ぎた。十分にいじくり回して使い込んだ結果感じることはこの一言・・・「もう手放せませんっ!!」
家の中でも、Macの前に座っているときでさえも使うことがある。こんな無意味なことをしてしまうのも、それだけiPod shuffleが手軽だからに他ならない。ごく当たり前に身に付けることができる小ささの恩恵とは、これほどまでに大きなものだったのか。

もともとiTunesとiPodのコンビネーションには、他のプレーヤの追随を許さない力があったのだが、機能を大幅に削ることでボディを小さくし、そこにシャッフル再生というコンセプトを当てはめるという発想自体に、他のメーカーはさぞ驚いたに違いない。
だが発表時は懐疑的な人も少なくなかった。「容量がたった1ギガ?」「ホイールはどうした?いやそれ以前に液晶がないじゃないか」「好きな曲を聴きたいときはどうするんだ?」
ところがフタを開けてみたら世界中で注文殺到。iPod shuffleが人々の需要にピッタリとマッチしたわけだ。

どんな人たちのどんな需要だったのか?それは私と同じく普段音楽をBGMとして聴いている人の、好きな曲を外でも聴きたいという需要。
だから「好きな曲を聴きたいときはどうするんだ?」という疑問には「選曲なんてしないよ、だって全部好きな曲だも~ん」という答えになるわけ。何日も家を空けて旅をするわけじゃないんだから、持っている曲を全部入れる必要などないし、むしろ気分や出先によって転送するプレイリストを使い分けるといった面白みがある。

私がポータブルプレーヤを手にするのは初めてではない。20代の頃はカセットテープのウォークマンを愛用していた。大きさがカセットケースとほぼ同じになった頃だ。テープなので当然ランダムプレイなど無いし、テープが終われば入れ替える必要もある。しかし当時はそれが当たり前だったし、とくに不便は感じなかった。多少重いのが難点だったけどね。
MD世代の人たちには、プレーヤの大きさ重さ、カセットテープの融通の利かなさはきっと歯痒く感じるだろうねぇ。

30代になったあたりから外で音楽を聴くことはほとんどなくなり、このての商品とも疎遠になっていたのだが、いつぞやのiPodの登場は衝撃的かつ魅力的だった。ただ、自分の需要を満たすためにしては少々値が張ると感じ、躊躇したまま早数年。iPod miniでさえも3万円近いし(New iPod miniは21,800円から)ただBGMとして聴くだけの私にはいらない機能がありすぎた。
そんな中登場したiPod shuffleはまさにオーダーメイドのよう。こういうプレーヤが欲しかった。気軽に買える値段、気軽に変える毎日。

具体的にはどう変わったかというと、昔のウォークマンはポケットに入るほどの大きさでは無かったので通勤中にしか使わなかったが、iPod shuffleはとにかく小さいので仕事中も(聴けるときは)聴くことができる。仕事の効率も上がった気がするし、なにより疲れにくくなった。いやマジで。
そして家では、転送する音楽をiTunesで選別する行為によって、音楽を再発見すると同時に自分の好みを再発見することもできた。

使いやすいiTunesとiPodを提供しているAppleにはホント感謝だが、「音楽を携帯する」というコンセプトのマシンを最初に発明したソニーにも敬意を表したい。
# by rukachas | 2005-02-24 23:32 | iPod&iPad&iPhoneの話