子供大好きRUKAの雑記帳
by RUKA
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必要と不要
c0039181_11235795.jpg毎日報道される事件のニュース記事を見ていて、こんなことをふと思った。

もし本当に神というものがいたとして、ある日、神がこの世の悪人を一掃したとする。
神が気合とともに念を放つと、地球上のありとあらゆる悪人が一瞬にして消え去った。

もしそうなったら、はたして人間の数は何分の一になるのだろう?
最も減少率の多い国、少ない国はそれぞれどこだろう?

ただこの場合肝心なのは「悪人」の定義だ。
自分勝手な理由で他人に損害や危害を与えた者は当然、悪人だろう。
やってはいけないことを、そうとわかっていてわざとおこなう者も悪人だろう。

だがこの世の中、良いことと悪いことどちらか一方しかしないという人はほとんどいない。
犯罪を犯さなくても、他人に迷惑をかけてしまうことは誰にでもある。

だからこれまで他人に尽くした数よりも、他人に迷惑をかけた数のほうが多い人も「悪人」とする。
他人にわざと迷惑をかけ続けていれば悪人。

このような定義で神が大掃除を決行すれば、地球はある程度は平和になるのかもしれない。
しかし残った人間からすぐにまた悪人が生まれるだろうし、気休め程度にしかならない。

この世の中、まったく他人の役に立っていない人がいる。
そういう人は自分で自分のことをゴミ・クズと自虐したり、他人からゴミ・クズ呼ばわりされることもある。

しかし役に立っていないだけなら、生きているだけでもそれは価値あることだ。決して不要ではない。
命を途中で終えることなく全うすることは、この世に生まれた者としての道理だから。

この世に本当に不要なのはゴミやクズではない、毒だ。
他人に迷惑をかけている人間は、毒を吐いているとも言える。

そういう意味では先ほど言ったような神による悪人一掃は、掃除ではなく「消毒」といったほうが良いのかもしれない。

私もいつかゴミやクズになる日が来るだろうが、それはそれで仕方がない。
だが毒にはなりたくない。なってはいけない。
だからやるべきことを見極める。
無害なゴミクズとなるために。
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by rukachas | 2017-03-25 11:28 | ニュースの話 | Comments(0)
義援金の募金
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当サイトのトップページに「東北地方太平洋沖地震」の義援金の募金に関するリンクを置きました。
このブログにも募金情報を書き並べてみようかと思ったんですが、それらの情報をまとめているサイトがすでにあるので、そこを紹介したほうが良いだろうということで、ここでは簡単に...。

募金情報まとめ - 平成23年東北地方太平洋沖地震

上記まとめサイトでは、募金をしている団体や企業、募金箱設置場所等の情報を掲載しています。
ぜひ募金にご協力をお願い致します。
また、さっそく発生している「募金詐欺」に関する注意事項も載っていますのでお読みください。

助ける人、協力する人、無関心な人、悪事をおこなう人、こんなときでも人間は様々ですが、いつ自分が助けを求める側になるやもしれません。

災害に対する心構え、普段からの心がけ、そして人々への心づかい。
心しておきましょう。
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by rukachas | 2011-03-21 16:04 | ニュースの話 | Comments(0)
はるな愛は何を救うのか?
善意今年1月、地震で大きな被害を受けたハイチに千羽鶴を送る送らないで騒動になったが、過去には日本の被災地でも、明らかに不要なもの(ハッキリ言えば迷惑なもの)が送られてきたこともあったそうだ。

以前ここで「"しない善よりする偽善"という考えは間違っている」と述べたことがある。
該当記事「する偽善より、伝える善心」

偽善とは善の偽物であり、善いことをしているように見せかけること。実際には相手のためになっていないこと。
相手の心情を無視して不要品を送りつけたり、余計な手間を取らせるなど、相手が望まないことをおこなうこと。親切の押し売り、それが偽善。
相手のためになることなら、それは目的はどうであれ、偽善ではなく立派な「善」だ。

人の心とおこないを良いから悪いへ順番にならべてみると・・・

1: 善の心を持ち、善行をおこなうこと。
2: 善の心を持ち、何もしないこと。
3: 偽善の心を持ち、何もしないこと。
4: 偽善の心を持ち、偽善をおこなうこと。
5: 悪の心を持ち、悪行をおこなうこと。

この順になるはず。
「偽善でもいいからやろう!」という考えが当たり前になってしまうと、人の気持ちを無視した型にはまった行動だけが一人歩きしてしまう。
「正義の対極にあるのは悪ではない、もうひとつの正義だ」と言った人がいたらしいが、まさにそう。

今年の夏も日テレで24時間テレビ「愛は地球を救う」が放送される。
今回のマラソンランナーは、はるな愛さんだそうだ。
半ばバラエティー番組と化しているが、慈善団体への寄付のために募金をおこなっていることは立派な善行であり、チャリティーもマラソンもドキュメンタリーも人々に多大な感動を与えることだろう。

ただ、たくさんの感動の涙の中にひとつでも関係者への怒りの涙が混ざっているのなら、我々は「善とは誰に対して何をすることなのか?」を考え直さなければいけない。

そして「何をしないべきなのか」も、考えなければいけない。
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by rukachas | 2010-06-11 18:00 | 言葉の話 | Comments(0)
ニュース報道のあり方
ニュース1月20日におこなわれた第44代アメリカ大統領就任式では、オバマ大統領の力強い演説で、多くのアメリカ国民が勇気づけられたことだろう。連日、暗いニュースばかり流れていた昨今、久々の大規模な明るいニュースだ。

日本では年明け早々から、やれ不況だやれ失業だという暗いニュースばかりになっている。
不況だ不況だとまるで不安を煽るかのように何度も放送するから、視聴者の気分も落ち込み、購買意欲も低下する。こうした、マスコミの報道の仕方が、不況の悪循環を招いているということはないだろうか?

普段は「他人の不幸は蜜の味」と思っている人間でも、自分に関係する悪いニュースならそう何度も見たいとは思わないはず。報道することは大切だが、視聴者にうんざりと思わせる報道は、どこか伝え方を工夫する必要があるように思う。

伝え方といえば、成人式の時期になると毎年繰り返される、一部の新成人の醜態を伝える報道や、違法運転の若者や暴走族をとりあげたドキュメンタリーも、テレビで放送するから後を絶たないんだという意見もある。

私もそう思う。成人式のニュースで、ふざけた連中を一切放送しなければ(撮影もしなければ尚良し)たぶん次の年から醜態をさらす者はかなり減るだろう。
違法運転を繰り返す若者をパトカーが追うという映像も、追う警察にはなれないが追われるヤツにはなれるとばかりに、そっちに憧れを持たせてしまう。オレなら上手く逃げ切るという、何の根拠もない妙な自信とともに。

彼らは大人になりきれないというよりも、自ら脳の成長を止めているのだ。成人しても頭の中が幼児並みの者は、テレビの報道する意味など考えもしない。ただ目の前に映った映像のインパクトでのみ思考し、行動する。
だから報道にとって映像は「副」でなければならない。「主」はもちろん物事の核心だ。

テレビ番組は過去に数々のヤラセをおこなってきたが、報道もまた然りで、一部のマスコミは悪を仕立てあげることさえしてきた。
予め暴走族に頼んで暴走行為をしてもらい、さも遭遇したかのように報道したり、ネットのウソブログを暴くという名目で、じつはそのウソを仕込んでいたり。

これらは視聴者がテレビ報道に対して、表面的な(映像的な)情報ばかりを求めすぎた結果、もたらしたことだと思う。映像は真実を伝えるが、何の真実であるかを偽るのは十分可能だ。
「暴走族の映像が撮れなきゃ困るんだよ!」「ウソブログを映さなきゃ困るんだよ!」現場の苦労はわかるが、ヤラセは絶対にいけない。

国民には知る権利があり、マスコミには報道する義務があるが、まるで個人のブログのようにネタ探しに躍起になっている最近のマスコミを見ると、国民を扇動するほどのかつての影響力はどこへやら、まるで視聴者の太鼓持ちのようだ。

何を報道するかではなくどのように報道するか、また我々も、何を知るかではなく何を感じるかが大切であると、つくづく思う。
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by rukachas | 2009-01-22 18:54 | ニュースの話 | Comments(0)
嘘つきっ子、ネットにはばかる
真実先月27日、お笑いコンビ「爆笑問題」の太田光さんの殺害を予告する書き込みをネットの掲示板にしたとして、32歳の男が逮捕された。
本人は「笑いのネタになると思った。本当に殺す気はなく、冗談のつもりだった」と供述しているが、最近はこのような軽いノリでの殺害予告が相次いでいる。

便所の落書きレベルで逮捕するなんて警察の横暴だ、という意見もあるようだが、実際にネットで予告されていた殺傷事件も少なくないのだから、警察に「こんな書き込み無視しろ」と言うほうが横暴だ。たとえ冗談でも冗談じゃない。

「埼京線の上野駅で...」や「◯◯を投します」(”殺します”に見せかけている)、「小女子を焼き殺す」(小女子は魚の名前)など、まるで言葉遊びでおちょくっているかのような書き込みでも数人が逮捕されているが、これも当然だろう。
たとえ爆弾じゃなくても、爆弾に見せかけて繁華街に置いておき、それで人に警戒心を与えて通常の業務を妨害すればじゅうぶん犯罪だ。あとから「いや、あれは爆弾じゃないから」と言い訳しても無駄なのと同じ。

ネットでの殺害予告が相次いでいる理由として「匿名性の悪い面が出ている」「逮捕されることに対する危機感が薄いのではないか?」と言われているが、私はこうも思っている。
殺害予告を書き込むという行為は、そもそも「平気で嘘がつける」という性格に起因しているのではないだろうか?
「上野駅で」の容疑者も「投します」の容疑者も「小女子を」の容疑者も、はたして逮捕されなかったら実際におこなっていただろうか?いやするはずがない。初めからその気などなく、嘘を書き込んでいたわけだ。

もちろん、実際に実行すれば良いと言っているのではない。殺害予告後に実際の犯行をおこなった者を、正直者と言っているのでもない。
だがカジュアル殺害予告と言えそうなくらい軽いノリの、最近の多くの殺害予告は、予告の名を借りた嘘文章でもある。逮捕された者のお決まりのセリフ、「実行する気はなかった」「ふざけてやった」という言葉は、はからずも自分が嘘つきであると白状しているようなものだ。

ネットがない時代は、たいていの場合、嘘はリスクとして自分に返ってきた。狼と少年の話のように、嘘をついていればいつしか疎外されてしまう。
だがネットでは嘘をついても直接自分が困ることはない。ネットの匿名性は、嘘つきさんに透明人間にも等しい自信を与えてしまった。自由にウソをつける場で羽目を外してしまった結果が、殺害予告での逮捕とはなんとも情けない。

このように、やりもしないことをやると書いたり、やってもいないことをやったと書いたり、フィクションを事実と見せかけている人は意外と多いのだろう。
テレビや新聞の場合は発覚するとやらせ問題として採り上げられ、叩かれ、それなりのペナルティを受けるが、そのてん個人の嘘は大目に見られているところがある。
某巨大掲示板の管理人は「嘘を嘘であると見抜けない人には(掲示板を使うのは)難しい」と言っていたが、その掲示板に嘘が横行しているとしたら、むしろ真実のほうが嘘っぽく見えてしまうかもしれない。

嘘つきは泥棒の始まりとはよく言ったもの。
嘘つきさんの冗談書き込みに警察や市民が翻弄されるくらいなら、いっそのこと「嘘を書き込んだら罰金」というくらいのペナルティを設けたほうが良いのではないかと思うくらいだ。
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by rukachas | 2008-08-03 17:59 | ニュースの話 | Comments(0)
秋葉原の通り魔と引き金の潤滑油
犯行予告8日に秋葉原で起きた通り魔事件の容疑者は、自分の境遇を恨み、自分以外の人間を敵と見なし、計画性を持って無差別殺人をおこなった。どのような心情であったにせよ、その行為は決して許すことはできない。
しかしこうも思う。2000年5月のコラムでも書いたことだが、「なぜこんな理由で人を殺したのか?」ではなく「なぜこんな理由で人を殺すような人間になってしまったのか?」が重要だ。

リストラの対象となったと思い込んだことが犯行の引き金になったと言われているが、そもそもいつ発射するかわからない弾丸がセットされているからこその引き金なわけで、そういう性質を持ち合わせた理由は、高校卒業後の自身の身の振り方にある。
さらに、この無責任な人格が形成された大元の原因は、やはり幼少期の育てられ方にあると言って間違いはない。

だが同時に、引き金を引きやすくする潤滑油のようなものがあったことも事実。それはネットの掲示板。容疑者は犯行直前まで計30回、携帯サイトの掲示板に心情を書き綴っていた。悲観的な内容に次第に閲覧者の反応も少なくなり、内容は愚痴、妬みへと変わり、恨み節を書きなぐるようになった。そしてとうとう犯行予告。
人間が事を起こす時はたいてい、その行為は特定の誰かに向けておこなわれている。この男も掲示板に書いた驚くべき内容を実践することで、自分を無視した者たちを振り向かせたいとでも思ったのだろうか?

「電車男」のように、閲覧者のレスが背中を押してくれて良い結果をもたらすなら有り難い。しかしこの男の場合は、自分の書き込みに背中を押されてしまったわけだ。
掲示板でのやり取りなど文章のやり取りに過ぎない。相手はその文章に反応しているのであって、書き込んだ人間に対して反応しているのではない。昔の文通でもパソコン通信でもそうだが、書き込まれた内容の深さを意識するあまり、相手の気持ちまでも深いと勘違いしてしまうことはよくあることだ。

ネットの交流で本当に心が通い合うには何年もかかるもの。私にはこの10年間で数千通ものメールをやり取りしてきたメール友達(少し年下の中年男性)がいる。まだ一度も出会ったことはないが、互いに信頼し合っている仲だ。
相手の言葉を重んじるレベルに達するには長い時間がかかる。他人に失礼な言葉を返す自己中さんを心配する雰囲気など、即席の付き合いにあるわけがない。
この男も自分の掲示板を愚痴と妬みの公開場にするぐらいなら、もっと長い目で見た心の交流を模索するべきだった。

容疑者は警察での調べに「襲撃直前にためらった」と供述している。そのためらいを払拭したのがすでに投稿した書き込みだったとすれば、男は過去の自分に背中を押されたことになる。
最初の書き込みは先月末。たった10日ほどで身勝手な計画を押し進め、そして実行。人の幸せを願うことも人の不幸を悲しむこともできない男は、失われた幼少期を取り戻そうと焦っていたのだろうか?その矛先は死刑台へと向いていたというのに。

「犠牲となった7人の方のご冥福をお祈りいたします」
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by rukachas | 2008-06-14 18:29 | ニュースの話 | Comments(0)
「幼少期の反抗はガス抜き」反社会的な大人を作らないために
反抗期先週、小学生の甥っ子の運動会に出席するため、遠く離れた妹の家まで出かけた。そこで「子供の反抗期」について語る機会があったので30分ほど議論してきたのだが、私は最近この「反抗期」について非常に関心を持っている。
理由は二つ。ひとつは、私の甥っ子4号くんが現在「思春期&反抗期」のまっただ中であること。
そしてもうひとつは、最近「正しい反抗期を経ずに育ってきたであろう者」による犯罪が相次いでいるからだ。

私はその日の夜、家に帰ってきてニュースを見て驚いた。東京・秋葉原で起きた衝撃的な通り魔事件。静岡県に住む25歳の男がトラックで秋葉原の歩行者天国に突っ込み、通行人をはねたあと車から降りてナイフで手当り次第に殺傷したという、7人死亡10人負傷の大惨事。
その後の調べで、この男は携帯電話サイトの掲示板に犯行直前まで逐一書き込みをしていたことが判明した。内容は毎日jpの記事を参照。
毎日jp 6月9日の記事

午前5時21分に「秋葉原で人を殺します」で始まって、犯行直前に「時間です」で終わる断続的な書き込みには、まるで自分が映画の主人公にでもなったかのような身勝手さが表れている。
しかし私がもっとも気になったのは、この男が書き込んだ文面のこの部分。
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午前6時02分 いい人を演じるのには慣れてる みんな簡単に騙される
午前6時03分 大人には評判の良い子だった 大人には
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報道によると、容疑者は高校時代に成績で挫折を味わったらしいが、小中学校時代は優等生で、周りの大人からはとても良い子と見られていたらしい。
しかしその「良い子」も、容疑者本人に言わせれば「いい人を演じるのには慣れている」となるわけだ。なぜ良い人に「なる」のではなく、良い人を「演じる」ことになるのか?

それは、幼少期の親の育て方に問題がある。
私はこのサイトを通じて過去何度も『軍隊式の子育て』『良い子を強制すること』『児童の無邪気さを奪うこと』は、百害あって一利無し、まともな人間が育つわけがないと警告してきた。今一度、声を大にして警告したい。

親はしつけのため、子供の言動を抑制したり強制することがある。ときには誰にも迷惑をかけていないことで叱ったり、恐怖と威圧で強引に従わせることもある。
しかしそれが子供にとって理不尽な要求であったり、本能的に持っている無邪気さや放縦さ、天真爛漫さを抑え込むようなしつけであった場合は、子供の心に次第に抑圧による膿みがたまっていく。

少年や若者による犯行の事件報道で、過去何度も繰り返されたこの言葉、「子供の頃は良い子だった」「親の言うことをきく素直な子だった」等々。
しかし親や周りの大人たちの前でだけ、良い子を演じていただけなのかもしれない。演じなければいけない状況を、大人たちが作っていたのかもしれない。

事実この容疑者はネットの掲示板に「小さいころから「いい子」を演じさせられてた」と、親への不満を書き連ねていた。
また、幼少期に親に理想を押し付けられ、自分の感情を抑えて育ちながらも、親は下の弟ばかりを可愛がっていた、という報道もなされている。

今回の秋葉原だけでなく、今年はこのような通り魔事件が立て続けに起きている。
記憶に新しいものでは、3月に茨城県土浦市の荒川沖駅で、24歳の男が包丁とナイフで通行人を次々と襲って8人を殺傷した事件があった。
容疑者は高校時代に弓道部に所属し、学校関係者は「まじめで一生懸命やる子だった」と証言している。しかし大人になってからはキレやすい性格だったらしい。

どちらの容疑者にも共通しているのは、世の中がイヤになったという感情が、見ず知らずの人を殺そうという発想に繋がっていること。(幼少期の愛情不足)
自分の身の逆境を、他の人間に責任転嫁していること。殺すのは誰でも良かったと、自分以外の人間をモノのように見ていること。(人との心の繋がりの希薄さ)
大人になるにつれキレやすい性格になった。(幼少期の心の抑圧による)
そして、子供のころ周りの大人には「真面目で良い子」と映っていたこと。

運動会で子供たちの元気な姿を見たあとだけに痛感した。今の子供たちを、こんな性格の大人にしてはいけないと・・・。
そのひとつの対策として、せめて小学生の頃には思いっきり悪ガキになれて、ふざけられて、大人に反抗できる定期的な「ガス抜き」が絶対に必要だ。
「うちの子は反抗ばかりして言うことをきかない」「いたずらばかりしている」と嘆いている親御さんに私は言いたい。親の言うことをなんでもハイハイと聞いて手のかからない子よりも、ずっと安心して良いですよ...と。

とは言っても放任ではいけない。親は子供にモラルを教え、他人に迷惑をかけないためにキチンとしつける必要がある。子供の心を壊さないまま正しくしつけるにはどうしたら良いのだろう?
このブログのサイドにあるタグ「子育て」をクリックすると、私が書いた子育てに関する記事が表示される。その中には子供の心を扱った記事も少なくないので、子育てをしている親御さんにはぜひご覧になっていただきたい。
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by rukachas | 2008-06-10 22:17 | 子供の話 | Comments(0)
極太のボーダーライン
マルとバツこのあいだあるテレビ番組で、数人の主婦タレントが「どこまでなら浮気じゃなくて、どこからが浮気か?」という話をしていた。その中で「ダンナが他の女性とメールすることは浮気?」という質問があったのだが、2名の女性が「イエス」と当然のように答えていたのが印象に残った。

女性とメールしただけで浮気だと思われるなら、結婚とはなんと窮屈なことだろう。
私は現在数十人の女性とメル友になっているが、内容は子育てのことやお悩み相談がほとんど。アッチ系の話はまったくないし、ソッチ系の話で盛り上がることもない。文字どおりただのメール「友達」だ。
だがもし私が結婚して、その嫁が前述した女性タレントのような人だったら、私はアドレス帳から女性のメアドを削除しなくてはならないのかもしれない。

世の中には、法律やルールとして様々なボーダーラインがある。ここまでならOK、ここからはダメ(あるいはその逆)という基準がある。
だが困ったことに、ボーダーラインのライン自体が太すぎて、区切りが曖昧なものがとても多い。

喫煙と飲酒は二十歳から、自動車免許と成人映画は18歳から、と数字で明確に区切れるものは良いのだが、「どこまでが友達付き合いでどこからが浮気か?」「どこまでが親切でどこからがおせっかいか?」などは受け手の心情にもよるので、そのボーダーラインはあまりに極太だ。
道路の速度制限のように、法律で明確に決めていながらも多少の超過はOKというケースもある。

今年2月から導入された、未成年者が使う携帯電話での有害サイトフィルタリングサービス。蓋を開けてみれば結局上手くいかず各社とも苦慮しているようだが、これも有害と無害のボーダーラインが太いことによる。
だいたい明確な基準が無いものを明確に分けようとするから無理が生じるわけで、のちにディー・エヌ・エー、ネットスター、マイクロソフト、ヤフー、楽天のインターネット事業者5社は「青少年インターネット規制法案」に反対声明を出している。

思春期を過ぎた子供たちに携帯を与えておきながら、見て良い・ダメの振り分けをブラックボックス的におこなうやり方は、子供の好奇心をいたずらに煽るだけで教育的効果はほとんど無い。
何が有害で何が無害かは、親子で実際に話し合ってみなければ結論は出ない。なにしろ人によってボーダーラインの位置も太さもまちまちなのだから。

ところでこの「思春期」という言葉もかなり曖昧な意味だと思っていたら、じつは医学的には明確な基準があるらしい。女の子は胸が膨らみはじめたら、男の子は精巣の容量が4ミリリットルを超えたら思春期だそうだ。
女の子の胸はともかく、男の子のほうは外からじゃさっぱり分からないし、本人でさえ自覚できないぞ。
これは細いけれども見えないボーダーラインだな。
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by rukachas | 2008-05-14 19:41 | 言葉の話 | Comments(0)
する偽善より、伝える善心
善意いつだったか、どこかの掲示板で見た会話だが、マザーテレサが「人に尽くすことが私の喜びである」という意味のことを語ったという話を受けて、ある男性が「なぁんだ、結局は自分のためにしてんじゃん、偽善者だな」と、こんなことを言っていた。(正確な会話は憶えていないので、こんなニュアンスだったということ)
私はそれを見て、「偽善」という言葉をそういう意味で捉えている人もいるのかと、少々意外な心境だった。

たとえば、自分がキレイ好きだから近所の道端も掃除するとか、人に親切にするのが好きだから人助けするとか、そういうのは理由はどうであれ、偽善とは言わないのではないだろうか?
「偽善」という言葉を辞書で引くと、「善いことをしているように見せかけること」とある。つまり、一見善いおこないのように見えて、じつは悪いおこないであること、それが偽善だ。

独り暮らしのお年寄りの家を訪れて、床下がどうだ水道水がどうだと言ってバカ高い機材を売りつける訪問販売がニュースなどで取りざたされるが、このように、相手のためになることをしているように見えて、じつはちっとも相手のためになっていない、これを承知の上ですることを「偽善」と言うのだと私は理解している。

だから、人を助けたり親切にするのは、その理由がたとえ「自分がしたいから」であっても、その行動が人のためになっているのなら、それは立派な「善行」であり決して「偽善」ではない。
そうでなければ、善は無償の愛のみになってしまい、警察官や医師などを目指す者の志が空しく感じられてしまう。

ボランティア活動も身近な親切も、善行のもっとも理想的な形は「他人のためにしていることが同時に自分のため(喜び)にもなっている」という形だ。
人類は最小単位の家族から最大単位の国家まで、そうした善意の成り立ちによって発展してきたわけで、逆に言えば、自分の気持ちを犠牲にした善行は、表向きは他人のためであっても、その世界を決して良い方向には導かない。

それに関連したことだが、よく聞く言葉に「しない善よりする偽善」というのがある。
多くの人が納得している言葉のようだが、私はこれには反対の気持ちを持っている。偽善という言葉を「それは善の偽物であり、実態は善ではない」と捉えているからだ。偽善をおこなうくらいなら、善の心を持ったまま何もしないでいたほうが良い結果をもたらすと思っている。

もちろんその「する偽善」という言葉の多くが、「心のこもらない行動」という意味で使われていることは知っている。実際に見える形での結果を出すことが当事者のためなのだから、しない者よりもする者が評価されるのは当然だ。
だがそれは目先の目的を達することにはなっても、長い目で見てより良い世界を創り出すことにはならない。100年200年先の未来に、より多くのマザーテレサを創り出すことにはならない。
人類に本当に必要なのは偽善の心で行動することではなく、善の心に揺り動かされ行動すること。心を重視せず、行動だけでそれを良しとする「しない善よりする偽善」には、ある種の危機感さえ感じてしまう。

しかし「しない善」も、自分ひとりで完結してしまっては何も生み出さない。いくら善の心を持っていても意味がない。ではどうするのか?・・・伝えれば良い。親から子へと、新しい世代へと。
人の心はそう簡単に変わりはしない。遥か100年200年先を見据えて、大人から子供へと、さらに次の世代へと「人に尽くす価値」を伝授し、それに喜びを見いだす子を育てていけば、未来は必ず良い方向に向かうはず。

例えるならこう。偽物でもいいから宝石(に見えるもの)を持っていたいと思う者が増えれば、本物の宝石を持つ者は少なくなる。しかし、偽物を持つくらいなら本物への憧れを心に持てば良いと思う者が増えれば、偽物は増えず、本物の宝石はより価値を高める。
善と偽善の関係もこれと同じ。
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by rukachas | 2008-03-26 21:27 | 言葉の話 | Comments(0)
ワイセツか否かは意図と用途で判断すべき
母子のヌード前回のコラムは「ヌードを扱ったものには、大人の性的興奮を目的として作られたワイセツなものと、全年齢に向けたワイセツさのないものがある」という話をしました。
今回は具体的に、それはどのようなものか?という話をしたいと思います。

2008年2月、男性器が掲載された、写真家ロバート・メイプルソープ氏の写真集が輸入禁止のワイセツ書籍に当たるかが争われた裁判で、最高裁は税関の輸入禁止処分を認めた2審東京高裁判決を破棄し、ワイセツ書籍には当たらないとの判断を下しました。裁判長が「メイプルソープ氏の写真集は、性欲を刺激するようなワイセツ書籍ではない」と結論づけたわけです。
私もネットの画像検索で一部を見てみました。たしかに男性器がハッキリと写っていましたが、好む好まないは別にして、ワイセツな意図による作品にはとても見えませんでした。至極当然な判決だと思います。

男性器の写真が載っているだけでワイセツとなるのなら、それは男性器そのものがワイセツということになりますが、もしそうなら、母親は赤ちゃんのオムツ換えのたびに顔を背けなければなりませんし、世の男性はトイレでファスナーを下ろすたびに興奮していることになります。
見せ方、扱い方によってワイセツになるのであって、男性器そのものがワイセツなのではありません。有名なミケランジェロの「ダビデ像」を子供たちに見せられるのも、公共施設に小便小僧が設置されているのも、男性器そのものはワイセツではないという証です。

このように裸でも、たとえ性器が写っていてもワイセツではない(合法)と判断されるものがあります。写真家の作品のような芸術的なものだけでなく、一般の方が撮影したごく普通の家族写真、とくに赤ちゃんや子供の写真においてはそのようなものが数多くあります。
たとえばネットで画像検索すれば、親が撮影した赤ちゃんのお風呂シーンや、水辺で裸になって遊ぶ子供たちの写真がたくさん見つかります。(子供 お風呂での検索例)
当サイトの「天使のアルバム」のページにも、親御さんが投稿した幼い姉弟のお風呂写真がありますし、「甥っ子天使くん」のページにも、私の甥が赤ん坊のときの全裸写真があります。

当然これらの写真がワイセツだと判断されることはありません。ワイセツな意図で撮影したのではなく、ワイセツな意図で掲載したのでもなく、またワイセツな扱い方もしていないからです。
ワイセツではないということは合法的に掲載しているということですが、中にはこのような家族写真さえも裸であれば違法ではないかと思っている人もいます。1999年に施行された児童ポルノ法の影響です。

1999年に施行された児童ポルノ法には、児童ポルノの定義として「衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの」という記述があります。
それによって興奮するかどうかはかなり主観的で曖昧なため、多くの人は「衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態」というところで違法合法を判断しているのが実情です。
児童性愛サイトに見られる「モロはありません」「ヌードはありません」という記述も、裸の写真でなければ大丈夫、性器が見えていなければ大丈夫、という思い込みがあるからでしょう。

しかし、2007年3月に駐日スウェーデン大使館で開催された「子どもポルノサイトの根絶に向けて」と題されたシンポジウムでは、野田聖子議員らが集まる中、「ロリータマニアが集まる掲示板では、普通の子供の画像が貼られただけで、子供ポルノの公然陳列と見なすことも考えている」という意見も出ました。(参考ページ)
つまり違法か合法かの振り分けが、裸の写真があるか無いかではなく、どのような意図によっておこなわれているか、に変わってきているのです。

これは昨今の子供を題材とした成人向けコンテンツの多さを考えると、当然の流れのようにも感じます。
児童ポルノ法によって18歳未満の裸像がいかなるものも発売禁止とされたため、それまで合法とされてきた、一般向けの少年少女ヌード(テレビ放送を含む)さえも、ひとくくりに規制されてしまいました。
その後、裸でなければ合法ということで、水着姿の少女を使った性的表現の強い写真集やビデオが次々と作られていきました。これについてはDVDの製作者が逮捕されたケースもありましたが、裸ではないため児童ポルノ法で完全に規制することはできていません。

言い過ぎかもしれませんが、現行の児童ポルノ法は「ヌードでなければOK」というお墨付きを国が与えてしまったようなものではないでしょうか。
違法か合法かはヌードか否かではなく、どのような者に向けてどのような意図で制作されたか、またそれがどのように流通しどのような扱いを受けているかで判断すべきだと思うのです。今後の法改正がその方向でおこなわれることを望みます。

美術館や公共施設にある裸像(絵画や彫刻など)と同じく、ワイセツな意図によらないヌード写真はワイセツ物ではありません。しかしそれらをワイセツな意図で扱った場合は、その行為がワイセツとなります。

その昔「少女アリス」や「潮風の少女」といった、子供でも買える一般向けの少女ヌード写真集があり、またそれらが決して非難されるものでなかったことを考えると、児童ポルノ法の施行以降、人々が子供の姿さえもワイセツだと認識してしまったことが、かえって子供を「聖域」から「性域」へと追いやってしまったと言えるかもしれません。
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by rukachas | 2008-03-05 21:23 | 子供の話 | Comments(0)