子供大好きRUKAの雑記帳
by RUKA
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タグ:疑問 ( 37 ) タグの人気記事
私が「寄せ植え」をしない理由
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多肉植物をある程度育てている人なら一度はしたいと思っている、あるいはすでにしているであろう寄せ植え。
ひとつの鉢や皿に複数の種類の植物をまとめて植える、あの「寄せ植え」です。

ネットで検索すると、多肉を寄せ植えしている人たちのブログと、そこに掲載された綺麗な寄せ植え写真がたくさん見つかります。
小さな多肉も様々な種類を寄せ植えればボリュームも増すし、デコレーションの楽しさもあります。専用の鉢や小皿も売っていて、賑やかな雰囲気になりますね。

しかし私はこの「寄せ植え」をあまりしたいとは思いません。たぶんこれから先もすることはないでしょう。
私が寄せ植えをしない理由。それは、寄せ植えすると配置の自由が制限されてしまうから。

育つにつれて形が変わる植物ですから、そのとき最も綺麗に見える角度でディスプレイしたいもの。
1鉢に1多肉ならそのつど鉢の向きを変えるだけで済みますが、寄せ植えしてしまうとそうもいかない。多肉Aの最も綺麗に見える向きが、一緒に植えた多肉B、多肉Cの最も綺麗に見える向きとは限らないからです。

また、私にとっては並べる順番や位置も重要。
あるときは和名の関連性でまとめたり、またあるときは属別でまとめたり、大きさや背の高さ、鉢のサイズ別にまとめたりと、そういうグループ分けの楽しさも鉢植えにはあるわけです。
ところが一度寄せ植えしてしまうとそのまとまりをずっと保持しなくてはなりません。配置を変えたくなるたびにいちいち植え直していたのでは、植物にとってかなりの負担になります。

もちろんこれは、置く場所や並べる順番や鉢の向きをコロコロ変える私には寄せ植えは向かないという話であり、並びや向きをあまり変えたくはならないという人には、寄せ植えは園芸の楽しさのひとつです。

ただ、多肉の気持ちになってみたときに、寄せ植えって正直どうなんだろう?という思いはあります。
ひとつの器にたくさんの多肉を植えているその様子は、人間でいえばひとつの部屋やお風呂にみんなで入っているようなもの。最初は楽しいし、多肉同士で語らいもあるでしょう。
でも年がら年中顔をつき合わせていたらプライバシーなんてありゃしない。もし相性が悪かったらそれだけでストレスになる。出るに出られぬアリ地獄。

ひとつの鉢に同じ多肉が2株植わっているのは良いと思います。ひとつの部屋を兄弟で使うようなものだから。
でも異種を同じ鉢に植える「寄せ植え」は、まるで他人との共同生活。食事も一緒トイレも一緒。
私にはそれが辛そうに見えるんですよ。

まぁ、私が勝手に感じたイメージですけどね。(´・ω・`)
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by rukachas | 2013-05-29 23:22 | 動植物の話 | Comments(0)
意図しない正しい動作
シニア私が使っていたiPhone 4をオフクロにあげてもうひと月半になるが(該当記事)電話にはならないながらも毎日それなりに使っているようだ。使うというよりもオモチャを弄っているような感じだが。

アイコンの下のアプリ名が小さくて読み取れず、虫眼鏡アプリを探すのに実際の虫眼鏡を使っていたりして、機能をアイコンで憶えるのはお年寄りには難しいのかもしれない。

だが一番厄介なのはやはり操作に関して。タッチパネルは目の前にあるものにすぐ触れてしまうお年寄りには扱いづらいようだ。
オフクロがよく口にするのは「勝手に画面が変わってしまう」「突然違うのが出る」ということ。どうやら指が意図せず画面に触れてしまうのが原因らしい。

指先で操作するのだから操作しないときは指を画面から離すように、と教えてはいるのだが、いつのまにかまた画面の上に指を置いていたりする。
無料アプリの広告領域に触れればその広告のサイトに飛ぶし、設定アイコンに触れれば設定画面が出る。オフクロの言う「勝手に画面が変わる」というのはそういうことのようだ。
しかも本人に画面に触れたという自覚がない。これでは車を運転している者がハンドルを右に回しながら「車が勝手に右折した」と言っているようなもの。

またこれとは逆に、iPhoneがオフクロのおこなうタップをタップと認識しないことがある。何故ならオフクロのタップは若干ドラッグ気味だからだ。
指先で一度触れたあとに、まるでボタンを押し込むようにグイッと押して、そして離す。
指先でポンと叩くようにすれば良いとは言っているのだが、数回に1回はこういう動作になってしまう。(必ずこうするわけではないから余計に修正が難しい)

オフクロはiPhoneでアプリを使っていると、ポンとワンタップで済むことでさえ「ここを押さなきゃいけないの?」「こうしなきゃいけないの?」とよく言う。
いつも家事をテキパキとこなしているオフクロなので、決してめんどくさがりではない。だが操作のための動作が自分の意思と直結していないから、こんなセリフも出るのだろう。

タッチパネルは直感的に操作できる便利なシロモノだが、お年寄りは自分の意思と指の動作が一致しないことがある。
今後スマートフォンが人の意識(画面に触れた意味)も理解するようにならない限りは、万人に使いやすい端末とはならないのだろう。

しかしこういうことを書くと若い人から「なんてドンくさい母親なんだ」「ボケてるんじゃないか?」と言われそうだが、私はこう言いたい。
「キミの若くて綺麗な母親もいずれはこうなるんだよ。そしてやがてはキミ自身もね」
必ずとは言わないが、そうなる可能性は誰もが持っている。

今の電化製品にも、そしておそらく未来の電化製品にも足りないもの。それはユーザーの操作よりもユーザーの意識を重んじる、そんな優しさではないかと思う。
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by rukachas | 2013-01-04 20:51 | iPod&iPad&iPhoneの話 | Comments(0)
「起きる」と「起こる」
起きる昔から気になっていた事のひとつに「起きる」と「起こる」の違いがあった。
地震が「起きる」 地震が「起こる」
大災害が「起きる」 大災害が「起こる」
どう違うんだろう?どう使い分けるべきなんだろう?

と思っていたら、どうやらこの疑問は結構ポピュラーだったようで、Yahoo!知恵袋にも同様の質問があった。
そこでの回答によると、自然発生的なものには「起きる」を使い、誰かが「起こす」ことによって発生したものには「起こる」を使うらしい。
つまり「起こす」「起こした」という原因によってもたらされた結果が「起こる」「起こった」であると。

この回答はたぶん正解だろうし、なるほど!と思わせる。
だが自然現象でさえ神の意思だと言い張る者もいるだろうし、この世のすべてが因果応報であるという考えのもとでは、これだと何から何まで「起こる」になってしまう。

そこで私なりに納得のいく答えを考えてみた。
出た結論は単純だった。動作が目に見える形で認識できること、あるいはその様子を端的に表したものについては「起きる」「起きた」。
目には見えない現象だったり、複数の事柄を総称して表したものについては「起こる」「起こった」を使うのが一番しっくりくるのではないかと。
簡単に言えば、その主語の動作が目に見えてわかるものであるか、そうでないかの違い。

「地震」の場合は、地面が揺れる現象なので「地震が起きる」「地震が起きた」
しかし「災害」と言った場合は、様々な災いを総称した呼び名なので「災害が起こる」「災害が起こった」となる。

「風」の発生は空気が流れる動作なので「風が起きる」となるが、「台風」と言った場合は具体的な動作ではなく気象上の名称なので「台風が起こる」となる。

寒くて震えることは「震えが起きる」だが、二日酔いなどの胸焼けは動作ではないので「胸焼けが起こる」となる。

渋滞が「起きた」のは、交通事故が「起こった」ため。
暴動が「起きた」のは、インフレによる政情不安が「起こった」ため・・・等々。

と、私になりに考えてみたが、この使い分けが正しいのかどうかは正直わからない。
でもこれが自分にとっては一番納得がいくので、今後ブログを書く時はこの使い分けでいこうかなと、勝手に思っている。
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by rukachas | 2011-05-27 18:51 | 言葉の話 | Comments(4)
技術の飛び出し禁止
飛び出し人間は飛び出ることが好きな生き物のようで、勢い良く飛び出るシーンを見ては大人も子供も大興奮。
劇場映画は3D映画が大人気で、家庭用の大画面テレビも3Dタイプが増えてきた。

さらには携帯ゲーム機も3Dになるそうで、任天堂が来年の2月に発売を予定している「3DS」というゲーム機は専用のメガネが必要ない裸眼立体視タイプだそうだ。

映画のスクリーン、テレビやゲームの画面から、ちょっと視線をずらせばそこには立体物が溢れているというのに、人々は娯楽メディアにも立体を求めはじめた。
いや、本当に立体映像を求めているのだろうか?

3Dらしい映像にするため、映画などは奥行きを目立たせたシーンが多くなり、人や物の動きがわざとらしくなり、カメラワークも単調になりがち。
コンテだけで人を感動させられるような作品がますます減ってしまうのではないかと、そんな気もしてしまう。

しかも現在の3D技術はどれも「飛び出しているように見える」だけ。
3DテレビのCM映像のように、サッカー選手がこちらに向かってボールを蹴っても、飛んできたボールが自分の横をすり抜けるわけではないし、ましてや後ろを向いたら(テレビに背を向けたら)遠くに飛んでいくボールが見えるわけでもない。

その昔「飛び出す絵本」というのがあった。(今でもあるかな?)
本を開くと、そこに描かれているイラストがムクッと起き上がってくる絵本。
これは本当に立体だ。紙が紙として手前に近づいてくるわけだし、見る位置によって形が変わったり、見える部分見えない部分が変化するのも実体ならでは。

こんなふうに実体のように映し出す技術というとホログラム(ホログラフィー)になるわけだが、これは実用にはあと50年以上はかかるだろう。もっとかな?
小さくネオンのように映し出すことにはすでに成功しているようだが、実体のような映像となるとまだまだSF映画の中だけだ。

現状の3Dには、専用メガネをかけても裸眼であっても解決できない、致命的な欠点がひとつある。
それは「病気や怪我で片方の目でしか見れない人は立体を認識できない」ということ。

ホログラムであれば、見る位置をずらせば違う角度から見れるし、横から見れば横顔が、後ろから見れば後ろ姿が見れる。
つまり映っている物を立体として認識できるが、現状の3D技術ではそれができない。

目が見えない人のためのテレビ、耳が聞こえない人のためのオーディオ機器、足がない人のための自転車を作れとメーカーに強いることはできないが、今のこの3D流行り、人々のニーズというよりもどこかメーカーの技術主導型に思えてならない。

生まれつき片方の目が見えない人は少ないかもしれないが、年をとって片方の目が見えなくなった人はたくさんいる。
そういう人を切り捨て、五体満足な人のみを楽しませるような技術は決して発展しない。つまり私は、現在の3D人気(需要)はすぐに廃れるだろうと思っている。

映画もテレビもゲーム機も、万人に喜ばれるのは「見せ方」ではなく「中身」。
3Dはすぐに飽きられる。何故なら我々の周りには、触れることもできる本物の立体が溢れているのだから。
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by rukachas | 2010-10-06 20:01 | 電気製品の話 | Comments(0)
「子供好き」が無い
RUKAの笑顔の灯りブログその昔、当サイトをYahoo! JAPANに登録しようとしたとき、カテゴリーは何になるのかで非常に迷いました。
Yahoo!の登録カテゴリーには、子育てと教育と児童福祉と芸術鑑賞を合わせたようなカテゴリが無かったからです。

私はそれを「子供好き」と呼んでいますので、子供好きというカテゴリーさえあれば済むのにと悔やんだものです。
そのときの様子は、当時の「独り言」のページに書き記しています。
2001年7月3日「子供好きというカテゴリー」

最近、日記ブログとしてアメーバブログを使っているのですが、ジャンルを登録するとき、自分のブログがどこに属すのかで同じように迷いました
子供に関するジャンルは「新米ママ」「子育てパパ」「妊娠・出産」など、どれも自分の子供に関するものばかり。

私のブログはほとんどが子供たちに関する記事なので「子供論」や「子供好き」というジャンルがあれば良いのですが、まったく無し。
仕方なく「小学生」というジャンルに登録しました。小学生くらいの子について語ることが多いからです。
最初は気が引けましたが、小学生サッカーチームのコーチや、小学校に携わっている人にもこのジャンルで登録している人がいるので、書き手が子供である必要はないのだろうと判断しました。

しかしそんな小学生ブログの中には、大人が小学生を演じているブログもあるようです。あるいは演じてはいなくても、すっかりお母さんの日記になっている子供ブログもあります。
前者は、言葉は悪いですが成り済ましブログ、後者は代理ブログということになりますね。

「小学生」というカテゴリもしくはジャンルは、小学生が書き手であることが重要なのでしょうか?それとも小学生に関する内容であることが重要なのでしょうか?
小学生が政治についてニュース記事を紹介しているブログと、大人が小学生について語っているブログでは、どちらが「小学生」というジャンルに相応しいのでしょうか?
アメブロの場合、そのへんがハッキリしません。

ただひとつ言えるのは、ブログは書き手が何者であるかを伝える手段ではなく、内容を伝える手段であるということ。
だから小学生のRUKAちゃんが書いているのだと思ってランキングページから来てしまった方は、私がオッサンだと知ってすぐ帰るのではなく、ぜひともいくつかの記事を読んで、一緒に子供について考えてもらいたいなと・・・まぁ、そう思うわけです。
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by rukachas | 2010-06-04 19:57 | Net&Webの話 | Comments(0)
不確かさへの確信
キリスト世界中で目撃されている空飛ぶ円盤。これは主にUFO(ユーフォーまたはユー・エフ・オー)と呼ばれているが、非常に良い呼び名だと思う。何故ならUFOとは「Unidentified Flying Object」の略で「未確認飛行物体」という意味。つまり「何なのか確認されていない飛行物」ということ。

その円盤を間近で確認し、捕獲して、調べあげて「正体はこれでした」となればもうこの名称は使えない。宇宙人が乗っていたなら「エイリアンクラフト」、未来から来たものなら「タイムマシン」と呼べば良い。
だが、少なくとも半世紀近くもUFOという名称を使い続けているところに、UFOというものの本質があるような気がする。

イギリスのテレグラフ誌の先月26日の記事によると、ブルガリアの政府機関「科学アカデミー宇宙リサーチ研究所」が「宇宙人はすでに地球に来ていて、我々を観察している」と発表したそうだ。
Aliens 'already exist on earth', Bulgarian scientists claim

宇宙リサーチ研究所の次長、フィリポフ氏が語ったそうなのだが、政府機関が堂々と明言したのだから、きっと世界中の宇宙人地球来訪肯定派のみなさんは「やっぱり!」と喜んだことだろう。
数ヶ月前にも、オバマ米大統領が宇宙人の存在を発表するのでは?という噂が流れたが、どうやら地球外生命体がこの地球にやってきて国レベルで関係しているという話は、UFOに夢を持つ人にはもはや絵空事ではないらしい。

しかしちょっと待ってほしい。ブルガリアの政府機関だろうがアメリカのNASAだろうがどこでもかまわないが、国民に対して宇宙人来訪を発表すればそりゃあ信じる人もいるだろう。
だがもしそのとき「これは事実だ!なぜなら私がその宇宙人だからだ!」と言ったら、それでも信じる人の数は変わらないだろうか?

「私が宇宙人だ」と語る人を見てしまうと、人々はその話を急に信じなくなってしまう。霊がテレビに出演して「じつは私、幽霊なんです」と語るのも同じこと。
それはどちらも「不確かなものを信じる」というパターンから外れてしまうから。

宇宙人は我々そっくりに姿を変え(またはもともと同じ姿をしていて)すでに人間社会に紛れ込んでいる、というのはよくある話だし、映画でもお馴染みの設定。
そして死んだ人間の霊魂が成仏できずに我々の周りを漂い、写真に写ったり(心霊写真)人に取り憑いたり、というのもよくある話。

しかし、目の前でマジックを見せられてもそれを魔法だとは思わない現代の人々が、普通に行動し普通に接し、ときにおどけてみせる宇宙人や霊を見ても、「らしくない」と突っぱねるのがオチだ。たとえそれが本物の宇宙人や霊だったとしても、あからさまになればなるほど人々は冷めていく。

人間は何千年ものあいだ神を信仰してきたが、もし神に固有の姿があり、太古の昔から人々と普通に接してきたとしたら、人々は神以外に不確かなものを見つけ、それを神と崇めるだろう。人間とはそういうものだ。
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by rukachas | 2009-12-02 23:23 | ニュースの話 | Comments(0)
非選択結果表示マシン~!
選択の時私は子供の頃、と言ってもたしか15、6歳の頃だったような気がするが、ドラえもんの道具でこんなのはどうだろう?と考えていたものがあった。
それは「もしこっちを選んでいたらどんな結果になったのか?」がわかる装置。
小さい子が考えるほど突拍子の無いものでもなく、ある程度リアルな設定を思い浮かべていた。

この装置は、少し前の出来事で行動しなかったほうの結果が、映像として映し出されるのだ。
たとえばいつも通っている道を通らず、ほんの気まぐれで迂回したとする。その結果、自動車に泥ハネされれば「うわ~こっち通らなきゃよかった」と思うだろう。
だが本当にいつもの道を通っていればイヤな目に遭わなかったのだろうか?この装置を使えばそれがわかる。

もうひとつの例としては、初めてパソコンを買う人がMacとWindowsのどちらを買うか悩んでいたとする。結果としてMacを買ったが、すぐに気に入らなくなり「Windowsにしとけばよかった~!」と嘆いた。
そんな人もこの装置で「もしWindowsを買っていたら?」を知ることができる。「Macにしとけばよかった~」と嘆いている姿が映し出されるというオチもあるが、それはそれで諦めもつく。

あくまでも過去の出来事に対してであり、しかも自分の行動による結果しか調べることができないので、タイムマシンのように過去を変えたり、これから起こることを事前に知ることはできない。よってギャンブルや宝くじの役には立たない。
あとから「こっち選んで良かった~!」となるか、「あっち選んでりゃ良かった...」となるか、それを知りたいという好奇心を満たす目的にしか使えない。あまり実用性はない。

実際にドラえもんの漫画やアニメにこういう道具が登場したかは知らないが、後悔先に立たずと言うように、自分がしなかったほうの結果を知りたいというのは、誰もが思うことではないだろうか?

だが、人間は人生の中でいくつもの分岐を越えて生きている。つまり選択肢の連続。大きい小さいはあれど、まるで迷路の中を歩いているかのように常に行動を選ばされている。
その選択により、場合によっては不幸な人生を送ったり、人を死なせることさえあるだろう。そんな大きな後悔を背負う人は、この装置を使いたがるだろうか?

「別なほうを選んでいたらどうなっていたか?」を知ることができないからこそ、人間は後悔の念に押し潰されずに生きていけるのかもしれない。
この装置がいかに馬鹿げているか、私がそのことに気付いたのは、若い頃の後悔を思い出として話せる歳になってからだった。
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by rukachas | 2009-04-05 19:08 | Comments(0)
感動の持続
ヒラサワCD音楽家にせよ画家にせよ作家にせよ、長きにわたり人を感動させ続けるのは大変なことだ。
だが、感動「し続ける」こともまた大変なことだ。若い頃はあんなに感動したのに今はあまり感動しなくなってしまった、という経験は誰にでもあると思う。

私も然り。全部ではないが、そう思うものはかなりある。アインシュタインの特殊相対性理論をわかりやすく解説した文章を読んで感動したり、映画のメイキングムービーを見て裏方の苦労や撮影テクニックに感動したり、西洋絵画に秘められた作者の思いに感動したり、とにかく「こりゃすげぇ」と思うことが多かった若かりし頃。

ところがそれなりに年をとると、同じものを見ても「なんで昔はこんなのに感動したんだろう?」と思ってしまうことがある。それは知識を得たことによって当たり前だと感じるようになったからなのか?それとも脳に感動センサーのようなものがあって、その働きが鈍くなってきたからなのか?

そんなギャップを多々感じる中で、もう20年以上も感動が変わらないものがある。音楽家、平沢進さんの音楽だ。
「好きな曲を何十年経っても好きなのは当たり前じゃないか?」と思うだろう。私が言いたいのはそういうことではない。その作品から受ける印象によって心が動かされる、その度合いが変わらないということ。単に好きかどうかではなく、その音楽に見出す価値が不変であるということ。

その昔、20年程前、私は平沢進さんのソロアルバムに感動して以来、ぜひ聴くようにと他人に勧め続けた。最初は末の妹。当時バービーボーイズのファンだった妹をヒラサワ曲の虜にした。平沢さんの声を「楽器のような声」と形容した吹奏楽部の妹。
その後も私の友人、会社の同僚、親戚、親の知り合い、甥っ子にまで、平沢さんのソロ曲を宣伝しまくったものだ。

そのとき使っていたのが「王様が聴く神の曲」という言葉なのだが、ジャンル分けが非常に難しいヒラサワ曲だけに、とにかく今まで聴いたこともない音楽なんだと説明するのが精一杯だった。
ところが人というものは、今まで聴いたこともない音楽を自分が好きになるわけが無い、と思い込んでいる人がとても多い。こちらがいくら紹介してもなかなか聴こうとしないのだ。

だから私はヒラサワ曲を人に紹介するときは、多少オーバーと思われがちな言葉をあえて使うようにしてきた。たとえば「この世でもっとも価値ある曲」だとか「世界の紛争を止められる唯一の曲」だとか、あるいは「これを聴いたら他の音楽がオモチャのように聴こえる」などと、他のミュージシャンのファンから恨みを買いそうなことまであえて言ってきた。

「この曲イイよ、聴いてみな」ではなかなか聴いてくれないものだ。だが「絶対ビックリする」「良い意味でショックを受けるよ」と言えば、「そんなことあるわけねぇだろ」という反発心で聴き始めるのだ。
1度聴かせてしまえばしめたもの。「大したことねぇよ」と言おうと思っていた者でさえ、それが言えなくなってしまう。驚き、感動し「これは凄い!」としか言えなくなる。こうしてまたひとり、価値ある音楽を知る人間が増えたというわけだ。

「音楽なんて好みだろ!」「人によって好きな曲は違うだろ!」「自分が気に入ったからって他人も気に入るとは限らないだろ!」・・・そのとおり。私もそう思う。
だがヒラサワ曲は、好きだとか気に入るとかそういう低次元の話では片付けられない、とてつもない価値と可能性を秘めているということを、知っておいても損はないと思う。
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by rukachas | 2009-02-28 16:19 | 音楽の話 | Comments(0)
働く理由
大赤字3ヶ月どころか4ヶ月近くも中断してしまったこのブログ。今日からまた不定期にだが、思うことを書いていこうと思う。

世はまさに世紀末的な大不況。寒空の下、大勢の失業者たちが広場や施設に集まっているが、どの人もみな本音を言えば、仕事が欲しいのではなく金が欲しいのだ。
テレビのニュースで見たが、ある地方巡業を生業としている劇団が、職がなく途方にくれている人たちのために社員募集をおこなったそうだ。ところが、給料が月3万円ほどだと聞かされると、面接に来たほとんどの人が考え込んでしまったらしい。

つまるところ、どの人も求めているのは仕事ではなく、それなりの収入だ。あれほどいる失業者の中に、住み込みのボランティア活動(いわばタダ働き)でも良いという声がまったく出てこないことからもそれがわかる。
先ほど言った劇団も、劇団員としてお客のために奉仕すれば、住むところが確保され食事も支給される。たとえ給料がまったくなくても生活していける状況だ。しかし皆それなりの収入を求めているから、このような職は視野にないわけだ。

失業者が求めているものは金なのだから、人件費を削減したい企業にいくら努力を迫っても無駄なこと。国は、それなりの収入を求めている人と、給料が安くても(無くても)人のために働ければ良いという人とを分けて対策をとるべきだろう。
つまり、受け皿を確保するだけでなく、人材に見合った受け皿を作っていくことが得策ではないかと思う。

定額給付金の支給問題も迷走している。自民党は景気回復のため、国民に使ってもらうために所得制限を設けず全員に配ると言っているが、金持ちは1万そこそこの金などもらわなくても使うときは自分の金を使うし、失業して困っている者には足しにもならない。
借金の返済の一部に当てても景気回復のために使ったことになるのだろうか?

私はなにも、定額給付金の支給をやめてその分を失業者へ、と言っているのではない。ただ、一時しのぎにしかならないような景気対策よりも、企業に依存しない受け皿の確保(または確立)に使ったほうがより前向きではないかと思うからだ。

仕事というものが目的の人もいれば手段の人もいる。大企業から首を切られた多くの失業者たちも然り。だが大企業にとっては従業員は手段でしかない。だから崩壊が始まった。双方が手段であればなおさらだ。
ウシ年の今年、牛の「はんすう」のようにもう一度吐き出して噛み直してみないと、この問題はとても消化できそうにない。
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by rukachas | 2009-01-10 17:56 | ニュースの話 | Comments(0)
こんな夢を見た
睡眠ずいぶん前にもここで書いたが、私の夢はとてもリアルで、まるで実体験のように記憶しているものがいくつもある。風景だけでなく手触りや匂い、その場の空気感までもがリアルなため、実際に見たことのある風景なのか夢の中だけのオリジナルなのか、自分でも未だに分からないでいる。

印象に残っている風景は、大きな川沿いの土手、その土手のカーブに沿うように建てられた白い巨大な病院。片側が谷底になっている細い砂利道を歩くとやがて辿り着く小さな旅館。麦わら帽子をかぶった小さな子供がいつもたたずんでいる中学校の水飲み場。夜、ただひたすら家を探して走り回ると見えてくる、すぐ隣が山になっている不似合いな街の交差点。
まだまだいくつも印象に残る場所があるのだが、そのどれも一度きりの登場ではなく、数年間から十数年間をおいて断続的に登場している。つい最近も「懐かし~、これ子供のときに夢に出てきた場所だ~!」と感動している夢を見た。

このように私の夢には何年もあいだを空けて登場するお馴染みの風景があるのだが、これとはまた別に、これでもかというくらい頻繁に登場するシチュエーションがある。子供の頃から今までにもう何百回見たかわからないほど。
それは、見知らぬ町で迷子になって、焦ってはいないのだが途方に暮れているシーン。そして山道で車のブレーキが効かなくなり谷底へ車ごと転落していくシーン。
もし精神科の医者がこれを聞いたら、なんと診断するだろう?

リアルなのは映像だけでなく感覚も含めてなので、痛みや恐怖が記憶に残っている夢も少なくない。今までに見た夢でとりわけ不快だったものというと・・・
人間の胸部を外科手術していて途中でミスをし、それからは気ばかり焦り、やればやるほど裏目に出て取り返しの付かない状態になり、最後は人形のようになってしまった人を前に愕然としている夢。
経緯は忘れたが何故か拳銃で腹を撃たれ、あまりの痛さとショックでうずくまっている夢。
そしてこれは1ヶ月ほど前に見た夢だが、とっくに朝のはずなのに一向に夜が明けないことを不思議に思い、窓から身を乗り出して空を見ると、夜空がものすごい数の星に埋め尽くされており、それが弧を描くようにゴーッと動いている夢。(プラネタリウムの早回しのように)

こう書くだけでは「これのどこが怖いの?」と思われてしまうが、夢の中でリアルに感じれば恐怖もまたリアルだ。
最初に言った、何年もあいだを空けて登場するリアルな風景も、頻繁に見る道に迷うシーンもブレーキ故障のシーンも、その登場理由や正体さえ分からず、これもある意味怖さを感じる。

眠っているときに見る夢。その内容を人に語ると心の中を見透かされてしまいそうな気もするが、夢の内容を話し合うことでそこに含まれた謎や秘密を探れるとしたら、有意義なことかもしれない。
小中学校の先生方。生徒に「疑問詞が含まれた夢作文」を書かせ、それをみんなの前で発表させ、他の子たちがその疑問の答えを探る・・・という授業はいかがだろうか。
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by rukachas | 2008-07-08 23:25 | Comments(0)