子供大好きRUKAの雑記帳
by RUKA
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感動の持続
ヒラサワCD音楽家にせよ画家にせよ作家にせよ、長きにわたり人を感動させ続けるのは大変なことだ。
だが、感動「し続ける」こともまた大変なことだ。若い頃はあんなに感動したのに今はあまり感動しなくなってしまった、という経験は誰にでもあると思う。

私も然り。全部ではないが、そう思うものはかなりある。アインシュタインの特殊相対性理論をわかりやすく解説した文章を読んで感動したり、映画のメイキングムービーを見て裏方の苦労や撮影テクニックに感動したり、西洋絵画に秘められた作者の思いに感動したり、とにかく「こりゃすげぇ」と思うことが多かった若かりし頃。

ところがそれなりに年をとると、同じものを見ても「なんで昔はこんなのに感動したんだろう?」と思ってしまうことがある。それは知識を得たことによって当たり前だと感じるようになったからなのか?それとも脳に感動センサーのようなものがあって、その働きが鈍くなってきたからなのか?

そんなギャップを多々感じる中で、もう20年以上も感動が変わらないものがある。音楽家、平沢進さんの音楽だ。
「好きな曲を何十年経っても好きなのは当たり前じゃないか?」と思うだろう。私が言いたいのはそういうことではない。その作品から受ける印象によって心が動かされる、その度合いが変わらないということ。単に好きかどうかではなく、その音楽に見出す価値が不変であるということ。

その昔、20年程前、私は平沢進さんのソロアルバムに感動して以来、ぜひ聴くようにと他人に勧め続けた。最初は末の妹。当時バービーボーイズのファンだった妹をヒラサワ曲の虜にした。平沢さんの声を「楽器のような声」と形容した吹奏楽部の妹。
その後も私の友人、会社の同僚、親戚、親の知り合い、甥っ子にまで、平沢さんのソロ曲を宣伝しまくったものだ。

そのとき使っていたのが「王様が聴く神の曲」という言葉なのだが、ジャンル分けが非常に難しいヒラサワ曲だけに、とにかく今まで聴いたこともない音楽なんだと説明するのが精一杯だった。
ところが人というものは、今まで聴いたこともない音楽を自分が好きになるわけが無い、と思い込んでいる人がとても多い。こちらがいくら紹介してもなかなか聴こうとしないのだ。

だから私はヒラサワ曲を人に紹介するときは、多少オーバーと思われがちな言葉をあえて使うようにしてきた。たとえば「この世でもっとも価値ある曲」だとか「世界の紛争を止められる唯一の曲」だとか、あるいは「これを聴いたら他の音楽がオモチャのように聴こえる」などと、他のミュージシャンのファンから恨みを買いそうなことまであえて言ってきた。

「この曲イイよ、聴いてみな」ではなかなか聴いてくれないものだ。だが「絶対ビックリする」「良い意味でショックを受けるよ」と言えば、「そんなことあるわけねぇだろ」という反発心で聴き始めるのだ。
1度聴かせてしまえばしめたもの。「大したことねぇよ」と言おうと思っていた者でさえ、それが言えなくなってしまう。驚き、感動し「これは凄い!」としか言えなくなる。こうしてまたひとり、価値ある音楽を知る人間が増えたというわけだ。

「音楽なんて好みだろ!」「人によって好きな曲は違うだろ!」「自分が気に入ったからって他人も気に入るとは限らないだろ!」・・・そのとおり。私もそう思う。
だがヒラサワ曲は、好きだとか気に入るとかそういう低次元の話では片付けられない、とてつもない価値と可能性を秘めているということを、知っておいても損はないと思う。
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by rukachas | 2009-02-28 16:19 | 音楽の話 | Comments(0)
働く理由
大赤字3ヶ月どころか4ヶ月近くも中断してしまったこのブログ。今日からまた不定期にだが、思うことを書いていこうと思う。

世はまさに世紀末的な大不況。寒空の下、大勢の失業者たちが広場や施設に集まっているが、どの人もみな本音を言えば、仕事が欲しいのではなく金が欲しいのだ。
テレビのニュースで見たが、ある地方巡業を生業としている劇団が、職がなく途方にくれている人たちのために社員募集をおこなったそうだ。ところが、給料が月3万円ほどだと聞かされると、面接に来たほとんどの人が考え込んでしまったらしい。

つまるところ、どの人も求めているのは仕事ではなく、それなりの収入だ。あれほどいる失業者の中に、住み込みのボランティア活動(いわばタダ働き)でも良いという声がまったく出てこないことからもそれがわかる。
先ほど言った劇団も、劇団員としてお客のために奉仕すれば、住むところが確保され食事も支給される。たとえ給料がまったくなくても生活していける状況だ。しかし皆それなりの収入を求めているから、このような職は視野にないわけだ。

失業者が求めているものは金なのだから、人件費を削減したい企業にいくら努力を迫っても無駄なこと。国は、それなりの収入を求めている人と、給料が安くても(無くても)人のために働ければ良いという人とを分けて対策をとるべきだろう。
つまり、受け皿を確保するだけでなく、人材に見合った受け皿を作っていくことが得策ではないかと思う。

定額給付金の支給問題も迷走している。自民党は景気回復のため、国民に使ってもらうために所得制限を設けず全員に配ると言っているが、金持ちは1万そこそこの金などもらわなくても使うときは自分の金を使うし、失業して困っている者には足しにもならない。
借金の返済の一部に当てても景気回復のために使ったことになるのだろうか?

私はなにも、定額給付金の支給をやめてその分を失業者へ、と言っているのではない。ただ、一時しのぎにしかならないような景気対策よりも、企業に依存しない受け皿の確保(または確立)に使ったほうがより前向きではないかと思うからだ。

仕事というものが目的の人もいれば手段の人もいる。大企業から首を切られた多くの失業者たちも然り。だが大企業にとっては従業員は手段でしかない。だから崩壊が始まった。双方が手段であればなおさらだ。
ウシ年の今年、牛の「はんすう」のようにもう一度吐き出して噛み直してみないと、この問題はとても消化できそうにない。
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by rukachas | 2009-01-10 17:56 | ニュースの話 | Comments(0)
こんな夢を見た
睡眠ずいぶん前にもここで書いたが、私の夢はとてもリアルで、まるで実体験のように記憶しているものがいくつもある。風景だけでなく手触りや匂い、その場の空気感までもがリアルなため、実際に見たことのある風景なのか夢の中だけのオリジナルなのか、自分でも未だに分からないでいる。

印象に残っている風景は、大きな川沿いの土手、その土手のカーブに沿うように建てられた白い巨大な病院。片側が谷底になっている細い砂利道を歩くとやがて辿り着く小さな旅館。麦わら帽子をかぶった小さな子供がいつもたたずんでいる中学校の水飲み場。夜、ただひたすら家を探して走り回ると見えてくる、すぐ隣が山になっている不似合いな街の交差点。
まだまだいくつも印象に残る場所があるのだが、そのどれも一度きりの登場ではなく、数年間から十数年間をおいて断続的に登場している。つい最近も「懐かし~、これ子供のときに夢に出てきた場所だ~!」と感動している夢を見た。

このように私の夢には何年もあいだを空けて登場するお馴染みの風景があるのだが、これとはまた別に、これでもかというくらい頻繁に登場するシチュエーションがある。子供の頃から今までにもう何百回見たかわからないほど。
それは、見知らぬ町で迷子になって、焦ってはいないのだが途方に暮れているシーン。そして山道で車のブレーキが効かなくなり谷底へ車ごと転落していくシーン。
もし精神科の医者がこれを聞いたら、なんと診断するだろう?

リアルなのは映像だけでなく感覚も含めてなので、痛みや恐怖が記憶に残っている夢も少なくない。今までに見た夢でとりわけ不快だったものというと・・・
人間の胸部を外科手術していて途中でミスをし、それからは気ばかり焦り、やればやるほど裏目に出て取り返しの付かない状態になり、最後は人形のようになってしまった人を前に愕然としている夢。
経緯は忘れたが何故か拳銃で腹を撃たれ、あまりの痛さとショックでうずくまっている夢。
そしてこれは1ヶ月ほど前に見た夢だが、とっくに朝のはずなのに一向に夜が明けないことを不思議に思い、窓から身を乗り出して空を見ると、夜空がものすごい数の星に埋め尽くされており、それが弧を描くようにゴーッと動いている夢。(プラネタリウムの早回しのように)

こう書くだけでは「これのどこが怖いの?」と思われてしまうが、夢の中でリアルに感じれば恐怖もまたリアルだ。
最初に言った、何年もあいだを空けて登場するリアルな風景も、頻繁に見る道に迷うシーンもブレーキ故障のシーンも、その登場理由や正体さえ分からず、これもある意味怖さを感じる。

眠っているときに見る夢。その内容を人に語ると心の中を見透かされてしまいそうな気もするが、夢の内容を話し合うことでそこに含まれた謎や秘密を探れるとしたら、有意義なことかもしれない。
小中学校の先生方。生徒に「疑問詞が含まれた夢作文」を書かせ、それをみんなの前で発表させ、他の子たちがその疑問の答えを探る・・・という授業はいかがだろうか。
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by rukachas | 2008-07-08 23:25 | Comments(0)
心を込めたお付き合い (後)
情報収集前回の記事の続き・・・
道具があまりに便利になりすぎると、人は目的ばかりを重視するようになり、その間の経緯をわずらわしいと感じるようになる。

私のサイトにはときどき相互リンクの依頼があるのだが、一昔前と比べて依頼主にある特徴が目立ってきた。まず、掲示板に書き込まれた挨拶が明らかに定型文であること。「サイトを拝見させていただきました」と書いてあっても実際はあまり見ていないことも多い。先日も私のサイトを「妊婦に関するサイト」だと思い込んでいた人もいたくらいだ。
そして、先にリンクを掲載してからの事後報告であること。うちはリンクフリーなので勝手にリンクしても構わないが、すでに掲載してあるからそっちも掲載して、というニュアンスのリンク依頼には違和感を感じる。

たとえば2件の店があったとして「あなたのお店で私の店を宣伝してくれたので、お礼に私の店でもあなたのお店の宣伝をしますね」というように、好意で始まったものに好意で応えるのが本当の相互リンクだと私は思っている。
昨今の相互リンクは「私の店であなたの店の宣伝をしておいたから、そっちも私の店を宣伝してね」というように、依頼する側先導のパターンがとても多い。

しかもこのタイプの依頼者の多くには、「再びこちらのサイトを訪れることはない」「再びこちらの掲示板に書き込むことはない」「管理人同士のコミュニケーションをとろうとはしない」「メールを出しても返事が帰ってこない」「サイトに掲示板を置かない」「1年くらいで閉鎖する」という共通点がある。
こういう人のサイトに他サイトへのリンクが数百個も並んでいるのは、他サイトに相互リンクしてもらうため(自サイトのアクセス数を増やすため)ではないかとさえ思ってしまう。

相互リンクはご近所さんの付き合いと同じ。リンクを張ればそれで終わりというものではなく、その後の心のやり取りが大切。同じジャンルの話題を話し合ったり、相談したり、助け合ったりが当たり前のようにできなくてはいけない。
私はうちのリンクページに載せているサイトへは定期的に訪れるようにしている。誰々さんちの◯◯ちゃんが幼稚園に入園、誰々さんちの◯◯君にはこんなことがあった、そういう情報をできるだけ頭に入れるようにしている。そして年に数回、全員に対して季節のご挨拶メールを出している。
こんな私だからこそ、人を招き入れる道を作るだけの相互リンクが、寂しく感じるのかもしれない。

前回の記事で書いた「ネットを機械的なデータベースとして使っている人」と、今回の「相互リンクはやたらとするが、お付き合いはあまりしたがらない人」が一昔前と比べて目立ってきたのは、ネットが情報ツールとして大きくなり過ぎたために、その間の「心のやり取り」をわずらわしいと感じる人が増えてきたからではないか?・・・と思うのだが如何だろう。

「ちょっと待った!ネットをデータベースとして使う人が多くなったなんてことはないぞ。ケータイサイトの掲示板も2ちゃんねる型の掲示板もどこも盛んだし、みんなじゃんじゃん書き込んでるじゃないか!」今回の私の記事を見て、そう思った人もいるだろう。

たしかにそうだ、見るだけではなく人との会話に使っている人もたくさんいる。そもそもただ見たり読んだりしているだけなら、ネット被害もこんなに増えるわけはない。出会い系サイト、最近問題になっている学校裏サイト、犯行予告を書き込んでしまう者、みな馴れ合いの中で積極的に発信している。

しかし私は、これらすべてを「心のやり取り」と呼ぶには無理があると思う。
今年4月のニュースだが、文部科学省の委託調査によると、子供たちが使っている学校裏サイトと呼ばれる掲示板のうちの5割に「キモイ」「うざい」など個人を中傷する言葉が含まれていたそうだ。
中傷を書き込んだ生徒と名指しされた生徒とのあいだにあるのは、双方とも一方通行の感情のみ。相手と心をやり取りするための書き込みではなく、毒を吐くための書き込み、誹謗中傷を人に見せるための書き込み。
心を込めた付き合いなどハナから求めてはいないのだろう。

つまり、これもある種データベース的な使われ方と言えるのではないだろうか。
真心ある付き合いを目的とし、その結果生まれた文字列なら、その言葉は他の人の心にも入り込むことができる。しかし心のこもらないうわべだけの馴れ合いや誹謗中傷による文字列は、無益なデータベースにしかならない。

前回のラストと同じセリフになってしまうが、読む、見る、知る、話す・・・やり取りする情報量はとても増えたが、心を込めたやり取りが増えたかというと、いささか疑問に思う。
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by rukachas | 2008-06-26 22:16 | Net&Webの話 | Comments(0)
心を込めたお付き合い (前)
情報収集ネットのコミュニケーションは良い方向へと向かっているのだろうか?心はどこかよそよそしく、しかしうわべだけは妙に馴れ馴れしく・・・。
ダイヤルアップ(電話の音声回線を使った、ブロードバンド以前の低速な接続方法)の頃からサイトを運営してきた人の中には、私と同じことを感じている人も少なくないのでは?

ブロードバンド以前と今とでは明らかにネットの質が違う。今では大抵のページはストレスなく表示され、高画質な動画も快適に見られるようになった。得られる情報量は爆発的に増え、その情報の窓口となるGoogleを始めとしたポータルサイトは今や有数の大企業にまでのし上がった。
ありとあらゆる物がネットに溶け込み、現代の人々にとってネットはまさに生活の一部となった。

しかしそれに伴い、ネットを単なるデータベースとしてしか使わない人の割合が増えたように感じる。
情報を得たいとき、検索してどこかの誰かさんの記事を発見し「フムフムなるほど」と知識を得る。だがその文章を書いた誰かさんのことは気にもしないし、ましてや感謝などしたこともない、そんな人が多くはないだろうか?

私のオフクロも先日、とある一般人のブログに書かれていたお菓子のレシピを見ながら料理していたのだが、美味しいお菓子ができたと喜ぶオフクロに「じゃあそのブログにお礼のコメントでも書いたら?」と言ったら「書くのはちょっと...」と言って躊躇していた。データベースとしては活用しても、一声かけることには抵抗があるようだ。

もちろんデータベースとしての使い道はネットの最大の利点だし、本来の姿なのかもしれない。だが情報の向こう側には同じようにキーボードを打っている人がいる、ネットはデータだけでなく心もやり取りできる、ということをもっと意識してほしい気がする。

これは私の主観だが、情報を得るイメージが、一昔前のネットなら近所の家に行って教えてもらったり本を見せてもらうイメージ。今のネットは、大きな図書館に行って無言で本を見るイメージ。
データベースに特化しすぎると情報にしか目が行かなくなり、行動が無機質になりがちだ。

読む、見る、知る、話す・・・やり取りする情報量はとても増えたが、心を込めたやり取りが増えたかというと、いささか疑問に思う。
次回に続く・・・
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by rukachas | 2008-06-24 23:56 | Net&Webの話 | Comments(0)
変わらぬ美味しさ
アクエリアス久しぶりに「アクエリアス」というスポーツ飲料を飲んで思った。かなりポカリスエットに近い味になったなと。

厳密には違う味だし、甘みもポカリより少ないのだが、出始めの頃のアクエリアスはもっとプラスチックっぽい、リカちゃん人形を噛んだような味だったと記憶している。他のスポーツ飲料もそうだが、ずいぶんと飲みやすくなったもんだ。

「昔はこんな味じゃなかった気がする」というのは結構あるもので、同じ商品でも原材料が変わったり配合が変わったりしながら、味も少しずつ変化しているのかもしれない。
だからこそ「これって昔からこの味だった?」と妙に気になるときがある。たまに復刻版のチョコやらスナックやらが発売されることがあるが、これだって当時の味とピッタリ同じかどうかはわからない。

私がアクエリアス以外で、味が昔と違うような印象を受けたのは、中野物産の「都こんぶ」、甘酸っぱいロッテのキャンディ「小梅ちゃん」、何故かピーナッツが入っている東ハトの「キャラメルコーン」、お馴染み「ペプシコーラ」などなど。
とくに都こんぶと小梅ちゃんは、もっとクセのある味だったような気がするのだが・・・。

これらは本当はまったく変わっていないのに、単に味に慣れて、つまり味覚が変化しただけなのか?それともやはり時代によって味が変わってきているのか?
もしタイムマシンがあれば、当時に行って食べ比べてみたいね。(゚▽゚*)
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by rukachas | 2008-06-02 23:12 | 懐古の話 | Comments(0)
極太のボーダーライン
マルとバツこのあいだあるテレビ番組で、数人の主婦タレントが「どこまでなら浮気じゃなくて、どこからが浮気か?」という話をしていた。その中で「ダンナが他の女性とメールすることは浮気?」という質問があったのだが、2名の女性が「イエス」と当然のように答えていたのが印象に残った。

女性とメールしただけで浮気だと思われるなら、結婚とはなんと窮屈なことだろう。
私は現在数十人の女性とメル友になっているが、内容は子育てのことやお悩み相談がほとんど。アッチ系の話はまったくないし、ソッチ系の話で盛り上がることもない。文字どおりただのメール「友達」だ。
だがもし私が結婚して、その嫁が前述した女性タレントのような人だったら、私はアドレス帳から女性のメアドを削除しなくてはならないのかもしれない。

世の中には、法律やルールとして様々なボーダーラインがある。ここまでならOK、ここからはダメ(あるいはその逆)という基準がある。
だが困ったことに、ボーダーラインのライン自体が太すぎて、区切りが曖昧なものがとても多い。

喫煙と飲酒は二十歳から、自動車免許と成人映画は18歳から、と数字で明確に区切れるものは良いのだが、「どこまでが友達付き合いでどこからが浮気か?」「どこまでが親切でどこからがおせっかいか?」などは受け手の心情にもよるので、そのボーダーラインはあまりに極太だ。
道路の速度制限のように、法律で明確に決めていながらも多少の超過はOKというケースもある。

今年2月から導入された、未成年者が使う携帯電話での有害サイトフィルタリングサービス。蓋を開けてみれば結局上手くいかず各社とも苦慮しているようだが、これも有害と無害のボーダーラインが太いことによる。
だいたい明確な基準が無いものを明確に分けようとするから無理が生じるわけで、のちにディー・エヌ・エー、ネットスター、マイクロソフト、ヤフー、楽天のインターネット事業者5社は「青少年インターネット規制法案」に反対声明を出している。

思春期を過ぎた子供たちに携帯を与えておきながら、見て良い・ダメの振り分けをブラックボックス的におこなうやり方は、子供の好奇心をいたずらに煽るだけで教育的効果はほとんど無い。
何が有害で何が無害かは、親子で実際に話し合ってみなければ結論は出ない。なにしろ人によってボーダーラインの位置も太さもまちまちなのだから。

ところでこの「思春期」という言葉もかなり曖昧な意味だと思っていたら、じつは医学的には明確な基準があるらしい。女の子は胸が膨らみはじめたら、男の子は精巣の容量が4ミリリットルを超えたら思春期だそうだ。
女の子の胸はともかく、男の子のほうは外からじゃさっぱり分からないし、本人でさえ自覚できないぞ。
これは細いけれども見えないボーダーラインだな。
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by rukachas | 2008-05-14 19:41 | 言葉の話 | Comments(0)
消臭芳香剤のジレンマ
消臭芳香剤うちのトイレに置いてある消臭芳香剤から、ほのかな香りが漂っている。
消臭剤は匂いを消すもの。芳香剤は匂いを放つもの。消臭芳香剤はその両方の機能を持つ、一見矛盾した商品。悪臭のみ消すのであっても、人によってどの匂いが悪臭なのかは異なる。ラベンダーの香りにむせ返る人もいるかもしれないし、ウ◯コの匂いが好きという人も、絶対にいないとは言い切れない。
匂いを消しながらも匂いを放つ。まるでクレタ人の嘘つきパラドックスのよう。いったい容器の中で二つの成分はどうなっているんだろう?

何年か前に、新車の車内の香りがする車用芳香剤が好評、という記事を読んだことがある。匂いだけでも新車の気分を味わいたいと、この芳香剤を買っていく人も多いそうだ。
車を車本来の匂いにするための芳香剤があるのなら、トイレをトイレ本来の匂いにするためのトイレ用芳香剤があってもイイんじゃないだろうか。売れるかどうかは微妙だが。

これは言わば白髪染めみたいなものだ。新しい状態に戻すのではなく、新しいときと同じに見える(感じる)ように細工をするわけだ。逆カモフラージュとも言える。
思えば今の世の中、このように”らしくない”ものによって”らしく”作られているものばかりだ。本物の果物よりもジューシーな無果汁ドリンク。本物より活き活きとした造花。本物より美味しそうな食品サンプル。本物よりリアル(?)なデジタル加工写真などなど。

人間もそう。すれ違った女の子から石鹸の香りがすれば、女の子らしいなぁと思うだろう。しかし本来人間は石鹸の香りはしない。石鹸を使うことに女の子らしいと言っているのなら、石鹸は男の子も使うのだから偏見になる。
だがラベンダーやキンモクセイの香りをかいでトイレの匂いだと思う人もいるくらい、らしさの感覚は変化しているのだから、男らしさ女らしさ、人間らしさも変わってきているのだろう。

そのものが本来持っているらしさに、イメージとしてのらしさを加えているのが人間だと思う。だが複数のらしさを有するがゆえのジレンマというのはある。消臭芳香剤のように、そのらしさが互いを打ち消しあうものだとしたらなおさらだ。
「二兎追うものは一兎をも得ず」ということわざの意味に近いが、得なかったのは二兎しか追わなかったからだ、という考えた方をする人もいる。10徳ナイフが100徳ナイフになれば10倍便利かというとそうとも言えないが、互いに打ち消しあわない程度の複数の自分らしさを持つことは、ある意味、社会で生き抜くための術なんじゃないかな。

私は周りの人にとって、嫌な匂いを消している消臭剤なのか、良い香りを与えている芳香剤なのか、それともどっちつかずのただの置物なのか、どっちだろう?と考えてみる。
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by rukachas | 2007-08-05 19:57 | モノの話 | Comments(0)
暗闇での認識力
おめめどうでもいいことだが、自分で体験していながら何故そう感じるのかよく解らない、ということはよくあること。今回の話はそんな、不思議だな~と感じていることのひとつ。

夜に自分の部屋の灯りを消して、窓は雨戸もカーテンも閉め、外の月明かりや街灯の光さえも一切入ってこないようにする。室内の電気製品の小さなLEDさえも光らないようにし、室内を真っ暗にする。蛍光灯は消したあともぼんやりと光っているが、これは漏れないように覆うなりして、とにかく室内を完全な暗闇状態にする。

この全く見えない状態で、灯りが点いている時と同じ行動をとってみると、これが意外にも結構すんなり行えてしまう。
部屋の隅まで歩いてイスに腰掛けたり、棚の上に手を伸ばし物を取ったり、取った物を反対側の机の上に置いたりなんてことも難なくできる。スタスタと歩き回っても壁にぶつかることもない。多少動作は遅くなるが、ある程度の行動は見えている時と変わらずに行える。
これは、暮らし慣れた自分の部屋だけに、部屋の大きさやモノの位置、距離感をすべて把握しているからだ。

ところが不思議なことに、この状態で目を閉じるととたんに動きがぎこちなくなってしまうのだ。目の前に存在しているであろうモノと自分との距離感がまるでつかめなくなり、スタスタと歩くこともままならない。自分がどれくらい移動したかもピンとこない。両手を前に出していないと不安で、まさに手探り状態のぎこちなさ。
全くの暗闇なのだから、目を開いていても閉じていても状況は変わらないはず。ところが実際にこのような違いが起こるのは何故だろう?・・・と、いくつか理由を考えてみた。

勝手な憶測1
 人間は普段目を開いた状態で行動しているので、目を閉じると脳の活動が一部停止し、距離感をつかむなどの感覚が鈍くなる。
勝手な憶測2
 光が全くない空間でも、人間の瞳は何らかの反射波を受けており、それによってモノの存在を感じている。目を閉じるとそれを受けなくなる。
勝手な憶測3
 そもそも部屋が完全な暗闇にはなっておらず、わずかな光によって目が機能していた(無意識に見えていた)。目を閉じて初めて暗闇になった。
勝手な憶測4
 目を閉じることでさらに見えなくなったと思い込み、大きな動作ができなくなった。
勝手な憶測5
 ただの気のせい。

座頭市のように、目が見えないのに周りの状況を把握できる人がいるが、それはこれとはまた別な理由だと思う(後ろの気配まで感じてるからね)。それともそんな人も、目を開いている時と閉じている時では感じ方が違うのかなぁ?
さて、私の勝手な憶測の中に正解はあるのだろうか?
ま、あろうとなかろうと、ホントど~でもいい疑問だが。(^^;)
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by rukachas | 2007-06-09 03:02 | Comments(0)
育児系の個人サイトにありがちなこと
サイト制作私のサイトのリンク集にはテーマがら、パパさんママさんたちによる育児系サイトを載せることが多い。
たまに「相互リンクしていただけませんか?」というメールをもらうことがあり、こちらも喜んでリンクを掲載しているのだが、数年前からある傾向に気がついた。

相手のサイトを見に行くと、「あれ?こういうサイト、前にも相互リンクしたような?」と軽いデジャブ状態。つまり相互リンクを依頼してくる方のサイトが、皆とても似通っているのだ。
画面左側に大まかなコーナー名が並び、本編では自らの子育てや子供の様子をエッセイ風に綴っている。病気に関する知識や旅行、ガーデニングの知識など、メインとなる内容は人によって違うが、全体のページ構成は非常によく似ており、プロフィールの書き方、写真が小さめ(あるいは少なめ)、自サイトのバナーが無いところまでそっくりだ。

しかしもっと似ているのが、リンク集が飛びぬけて充実しているところ(掲載数が多い)。最近作ったばかりとは思えないほど、リンクページに並ぶサイト名の多いこと多いこと。言い方は悪いが、子育て系サイトのリンクを巡り、片っ端から相互リンクの依頼をしては載せているといった感じだ。
大量掲載のリンク集は載せてもらっても埋もれてしまい、こちらとしては旨みはほとんどないのだが、まぁうちを選んでくれただけでも有難いことだなと・・・。これからもどうぞヨロシク。<(_ _)>

最近の育児系サイトがどれも似通っているのは、もしかしたらホームページ作成ソフトのテンプレート(雛形、見本)やマニュアルによるところが大きいのかなぁと思えてきた。
ビギナー向けのパソコンは初めから色々なソフトがインストールされているが、最近のホームページ作成ソフトは、指示通り文字を入れていくだけで出来上がってしまうのかもしれない。しかもご丁寧にメニューやプロフィール欄の書き方まで説明してくれるのかもしれない。さらには、読者を増やすためにはリンク集の充実を・・・なんて説明まであるのかもしれない。

そんなことを想像してみたが、実際のところは分からない。
ただハッキリしているのは、こうして相互リンクした育児系サイトのほとんどが、数年で姿を消してしまうということ。サイトを引っ越すのなら連絡くらいくれれば良いのに、大抵はいつの間にかデッドリンクになっている。
他サイトのリンクを貼ってもアクセスは伸びないし、子供が産まれた頃のテンションも数年続かない。だんだんと飽きてきて撤去または放置、というパターンが多いのだろう。

サイトからブログに移行する人も多いと聞くが、そのブログも数年経たずにやめてしまう人も、これまた多いと聞く。自分の思いを気軽に発信できて、やめるときも気軽にやめられるのがネットの良さだが、やめ時は始め時以上に大切かもしれない。
私のサイトは今年で8年。開設した頃の勢いはもうないが、子供をめぐる世間の有様を見る限り、やめ時は当分来そうにない。
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by rukachas | 2007-06-04 23:31 | Net&Webの話 | Comments(0)