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RUKAの雑記ノート(現在休止中)

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♂と♀でジェンダー・フリー

男と女最近新聞などで、行き過ぎたジェンダー・フリー教育についての記事をよく見かける。小学校で高学年の男女を同じ教室で着替えさせるとか、運動会の騎馬戦を男女混合で行うとか、一部の教育現場ではまったくおかしなことになっているようだ。
男らしさ女らしさの概念を批判するジェンダー・フリー思想が広がる中で起きたことだが、もしかしたらジェンダー・フリーに対する批判的な意図も多少はあったのかもしれない。もちろん生徒の心を無視したこのような現場は、すぐに改めなくてはいけないが。

人間は男か女かどちらかであり、生物学的に明確な違いがある。
性差別は決してあってはならないことだが、これは性別によって格差(上下の差)が生じてはならないということであって、男女の違いを無視するということではない。例えれば、犬と猫どちらも可愛がりましょうということであって、犬にネコジャラシを与えたり猫に首輪を付けて散歩するということではない。
犬には犬の、猫には猫の扱い方がある。だから人間も男と女で向き不向きがあるのは当然のこと。これを差別と呼んではいけない。

しかしその向き不向きにも当然例外があり、性別による選り分けがマイナスに働く人もいる。そういう個人的な能力や精神面の違いを考慮しない現場があることが問題なのであり、これはジェンダーの問題とは分けて考えるべき。

だがジェンダー・フリーを訴える団体なり個人なりが、男らしさ女らしさの概念を批判する意図はよくわかる。とくに女性の場合、作られた「らしさ」に縛られてきた歴史が長いのだから。
しかし時代とともに移り変わるこの「らしさ」。少なくとも私は現代の「女らしさ」という言葉の中に、縛りの意図は見出せない。
雄々しい女、女々しい男が大多数を占める世の中になれば、性差別を高らかに訴える声も減ってくるだろう。だがこれでは「らしさ」が逆転したに過ぎず、ジェンダー・フリーが実現できたことにはならない。そういう意味では、男らしさ女らしさに捕われない文化の出現が、不可欠なのかもしれない。

我々は男らしさ女らしさを口にする前に、はたして人間らしいのだろうか?
鳥は地を歩くよりも大空を飛んでいたほうが鳥らしい。魚は水の中で活き活きしていたほうが魚らしい。人間にもそういう「らしさ」があるはず。
これからの未来、男は男に産まれてきたことを、女は女に産まれてきたことを感謝しつつ、人間らしさについて考えていくことが理想ではないだろうか。
by rukachas | 2006-01-16 21:39 | ニュースの話