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大人と子供で共に感じよう
心の共有最近人と話していると「そそ、そ、それでさぁ」という感じでどもったり、「え~、あの~・・・」と次の言葉がすぐに出てこなかったりと、まるで歯車の油が切れたかのような喋りになるときがある。
もしかして脳の老化現象?ボケの始まり?この歳で?う~んヤバイヨ~!(´Д`;)

ところが、私は子供と話をするときは相変わらず饒舌。言葉が湯水のようにポンポンと湧いてくる。私と子供とのあいだで行き交う「言葉のボール」の弾力性は、一向に衰える気配がない。
それじゃあまるでルイス・キャロルのよう。うん、そうかもしれない。キャロルは私が尊敬する偉人のひとりだし、子供好きという共通点もある。(キャロルのは恋で、私のは愛だが)

親、教師、保育士など、子供と会話をする機会を持つ人はたくさんいるが、そのときキャロルのように子供の気持ちをしっかりと汲んでやれる大人は、はたしてどれほどいるのだろう?さほど多くはないような気がする。
とかく大人は子供に真実をすべては話さず、子供は大人に本心をなかなか明かさないものだ。

それは何故か?大人は心のどこかで計らずとも大人主導型の意識があり、子供の意思テリトリーの外側から管理しようとするからだ。
かたや子供は、大人は自分よりも経験があるのだということを意識するがゆえに、見透かされないよう(バカにされないよう)身構え、自らの気持ちをフィルターに通すことがある。
いつの時代も、大人は「今どきの子供は」と苦言を呈し、子供たちは「大人はわかってくれない」と距離を置く。この距離と不確かな意思の疎通の中で、大人は子供を守ろうとし、子供は大人に依存しようとする。はたしてこれでうまくいくのだろうか?

とあるテレビ番組で、続発する子供を狙った犯罪についてたくさんの大人たちがディスカッションしていた。不審者から子供を守るにはどうしたら良いのか?子供が犠牲となる事件に対して、親や教師はどう対処していけば良いのか?などと、著名人らも交えて侃々諤々の議論を闘わせていた。

私はこのての番組を見ていていつも思うのだが、大人が子供について語り合う場に、なぜ主役であるはずの子供たちがいないのだろう?これはネットの掲示板でも感じることだ。
たしかに子供を守るのは大人の役目であり、子供になるべく不安な思いをさせないためにも大人がバックグラウンドで動く必要はある。しかしこのような重要な事柄は、子供と共にディスカッションをし、互いにどのような意識でいるのかを把握し合わなければ高いセキュリティは望めない。

親は子に「怪しい人に気をつけなさい」と言う。学校では「不審者に注意」と教える。しかし子供はその「怪しい人」「不審者」について、具体的にどういう人なのかを何も知らない。知らないから、大人に対して常に警戒心を持ってしまう。いや警戒心というよりもむしろ不信感といった感じか。
新聞の投書欄にも「近くにいた子供に道を尋ねたら、逃げていってしまった」というお年寄りからの投書もあった。
これは子供にとっては完璧な防御かもしれないが、親しい大人以外とのコミュニケーションができぬまま育つこの子の未来に、私は一抹の不安を感じる。

子供たちにとって不審者という言葉はモンスターと同義語であり、漠然としたイメージしか持っていない。これでは意味がない。己の身を守るためにはまず敵を知ること。これは防御の鉄則だ。
子供には、子供を狙う人とはいったいどういう人なのか、何をしようとしているのかを正確に教える必要がある。それは相手が変質者であっても、精神が異常な暴力的な人であっても同じこと。
子供にそれを意識させぬまま外側から守ってやれるほど、世間の大人はスーパーマンではない。子供自身が敵の情報を正確に知ることこそ、いざというときの防御にもなり、また自ら危険を招かないことにもつながる。

子供への情報をフィルタリングしたり、子供の自由意志を抑制したり、子供の行動に先回りして対処するのも躾や教育のひとつではあるが、子供の意思テリトリーの外側から管理するだけでは、いったいどんな子が育つのやらと心配になってしまう。
子供たちも子供たちで、自分を誇示することを意識するがゆえに、ほぼ同世代のみで戯れ、狭い範囲のコミュニティを形成してしまう。どちらも異世代間の意志の疎通が足りないのだ。

たしかに某巨大掲示板のように、あらゆる世代の会話が入り乱れているところもあるが、それは情報の共有であり意思の疎通とは違う。実際に、相手の歳が自分よりもずっと離れていることを知ったとたん、年配者も若者もそれぞれ相手を見下げるセリフをはくことがよくある。
これでは大人が子供の気持ちを理解することも、子供が将来の自分を見据えることもままならなくなってしまう。子供のセキュリティのためにも、善き大人へと育つためにも、大切なのは異世代間での心地よい意思の疎通だ。

大人と子供が気軽に対話するのはたやすい。しかし、一切フィルターを通さない意思の疎通は難しい。
だがそれを実現するのは「共感」だ。共感するかしないかは感性の違いであり年齢の違いではない。大人による子供の管理は、この共感をベースとしておこなうべき。
ルイス・キャロルがなぜああもアリス・リデル(実在の子)の心を引き付けることができたのか。それはキャロル自身がアリスの心に共感していたからに他ならない。

(ルイス・キャロル = 童話「不思議の国のアリス」の作者)
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by rukachas | 2006-04-12 21:17 | 子供の話 | Comments(0)
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