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RUKAの雑記ノート(現在休止中)

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命で償え

反省!山口県で1999年に起きた母子殺害事件の被告に対する上告審で、最高裁は20日、広島高裁の無期懲役判決を破棄し、審理を高裁に差し戻した。
これにより、差し戻し後に被告に死刑が言い渡される可能性が大きくなった。

死刑・・・法の名の下に犯罪者を死に至らしめる刑罰。
私は今まで自分のサイトで幾度となく『人の命はとても重く、この世で最も価値あるもの』と言ってきた。また『善人であれ罪人であれ、人によって命の価値に差はない』とも言ってきた。
では、私は死刑廃止論者かというと、そうではない。むしろ死刑制度は廃止してはならないものだと思っている。

たしかに死刑は残酷な行いであるし、死刑制度があるからといって殺人事件が減るというものでもない。
だが死刑の存在意義とは、犯罪抑止でも見せしめでもなければ、世間の犯人に対する怒りに応えるためでも、遺族の感情を考慮するためでもない。

では死刑は何のためにあるのだろう?
私は、死刑とは「代償」ではないかと思っている。人のものを奪ったのなら、自分もそれ相応のものを犠牲にして償うのが人の世のシステム。人の命を奪えば自分の命も奪われて然るべきだろう。凶悪な殺人罪に限っては、代償として死刑が必要なのだ。

しかし代償だからといって、自分の命を差し出せば(つまり死亡すれば)それで良いのかというとそうではない。連続幼女誘拐殺人事件の犯人である宮崎勤死刑囚は「絞首刑は残虐なので、死刑は薬物による執行に改めるべき」などと勝手なことを言ったそうだが、この犯人が薬で眠るように死んでいって、果たしてそれがあの事件の代償となるだろうか?
死刑はあくまでも刑罰なので、刑自体が「罰」でなければならない。安楽死では本人が「苦」を感じることなく終わってしまう。苦を感じなければそれは刑罰ではない。

繰り返しになるが、人の命を(わざと)奪うことはこの上なく愚かなことであるが故に、死刑制度は絶対に必要だと思う。それは「目には目を」という意味ではなく、この世に生を受けた者としてのケジメのようなもの。
ただし当たり前のことだが、代償を払ったからといって被害者の死がチャラになるわけでも、遺族が救われるわけでもない。

刑に関してはもうひとつ思うことがある。
殺人事件、とくに未成年による犯罪の場合、加害者の更生の可能性を見込んで減刑されることがよくある。凶悪な猟奇殺人の犯人でさえ、反省しているから、更生の可能性があるからと、死刑にならずに済むことがある。
私は、「反省している」「更生の可能性がある」ということと「減刑」がどうして結びつくのかわからない。

刑は行いに対しての罰であり、過去に行った過ちは、いくら反省しようとこれから更生しようと消えるものではない。然るべき代償を払ったのちに更生すれば良いわけで、その代償が死に値するなら、死して更生を諦めるもやむなしと考えるのが妥当だ。
また、反省とは心から自然とわき上がる被害者への詫びであるのに、そこに減刑というご褒美があれば本心はわからなくなる。

少なくとも、自分勝手な理由で人を死に至らしめた者は、自らの死をもって償うべきだという原則を、この国には持ってほしい。
反省など、褒美があればサルにもできる。
by rukachas | 2006-06-22 01:20 | ニュースの話