子供大好きRUKAの雑記帳
by RUKA
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する偽善より、伝える善心
善意いつだったか、どこかの掲示板で見た会話だが、マザーテレサが「人に尽くすことが私の喜びである」という意味のことを語ったという話を受けて、ある男性が「なぁんだ、結局は自分のためにしてんじゃん、偽善者だな」と、こんなことを言っていた。(正確な会話は憶えていないので、こんなニュアンスだったということ)
私はそれを見て、「偽善」という言葉をそういう意味で捉えている人もいるのかと、少々意外な心境だった。

たとえば、自分がキレイ好きだから近所の道端も掃除するとか、人に親切にするのが好きだから人助けするとか、そういうのは理由はどうであれ、偽善とは言わないのではないだろうか?
「偽善」という言葉を辞書で引くと、「善いことをしているように見せかけること」とある。つまり、一見善いおこないのように見えて、じつは悪いおこないであること、それが偽善だ。

独り暮らしのお年寄りの家を訪れて、床下がどうだ水道水がどうだと言ってバカ高い機材を売りつける訪問販売がニュースなどで取りざたされるが、このように、相手のためになることをしているように見えて、じつはちっとも相手のためになっていない、これを承知の上ですることを「偽善」と言うのだと私は理解している。

だから、人を助けたり親切にするのは、その理由がたとえ「自分がしたいから」であっても、その行動が人のためになっているのなら、それは立派な「善行」であり決して「偽善」ではない。
そうでなければ、善は無償の愛のみになってしまい、警察官や医師などを目指す者の志が空しく感じられてしまう。

ボランティア活動も身近な親切も、善行のもっとも理想的な形は「他人のためにしていることが同時に自分のため(喜び)にもなっている」という形だ。
人類は最小単位の家族から最大単位の国家まで、そうした善意の成り立ちによって発展してきたわけで、逆に言えば、自分の気持ちを犠牲にした善行は、表向きは他人のためであっても、その世界を決して良い方向には導かない。

それに関連したことだが、よく聞く言葉に「しない善よりする偽善」というのがある。
多くの人が納得している言葉のようだが、私はこれには反対の気持ちを持っている。偽善という言葉を「それは善の偽物であり、実態は善ではない」と捉えているからだ。偽善をおこなうくらいなら、善の心を持ったまま何もしないでいたほうが良い結果をもたらすと思っている。

もちろんその「する偽善」という言葉の多くが、「心のこもらない行動」という意味で使われていることは知っている。実際に見える形での結果を出すことが当事者のためなのだから、しない者よりもする者が評価されるのは当然だ。
だがそれは目先の目的を達することにはなっても、長い目で見てより良い世界を創り出すことにはならない。100年200年先の未来に、より多くのマザーテレサを創り出すことにはならない。
人類に本当に必要なのは偽善の心で行動することではなく、善の心に揺り動かされ行動すること。心を重視せず、行動だけでそれを良しとする「しない善よりする偽善」には、ある種の危機感さえ感じてしまう。

しかし「しない善」も、自分ひとりで完結してしまっては何も生み出さない。いくら善の心を持っていても意味がない。ではどうするのか?・・・伝えれば良い。親から子へと、新しい世代へと。
人の心はそう簡単に変わりはしない。遥か100年200年先を見据えて、大人から子供へと、さらに次の世代へと「人に尽くす価値」を伝授し、それに喜びを見いだす子を育てていけば、未来は必ず良い方向に向かうはず。

例えるならこう。偽物でもいいから宝石(に見えるもの)を持っていたいと思う者が増えれば、本物の宝石を持つ者は少なくなる。しかし、偽物を持つくらいなら本物への憧れを心に持てば良いと思う者が増えれば、偽物は増えず、本物の宝石はより価値を高める。
善と偽善の関係もこれと同じ。
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by rukachas | 2008-03-26 21:27 | 言葉の話 | Comments(0)
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