子供大好きRUKAの雑記帳
by RUKA
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カテゴリ:子供の話( 61 )
子宝
赤ちゃん子を得ることを「子宝を授かる」と言うくらい、昔から子供は宝物のように大切だとされている。
だがこの大切だという感覚にも、大きく分けて二通りのパターンがある。

ひとつは「財産」としての大切さ。いつか、親である自分のためになってくれるであろうという、つまり将来のための備え、蓄えという意味での宝物。この場合は熟成されるまで長い目で見る必要がある。

もうひとつは「作品」としての大切さ。子供そのものに価値を感じる、愛着を感じるという意味での宝物。庭先の花を大切に育てたり、自分の描いた絵を大切にしていたり、そういうこと。
たとえば綺麗な富士山を見て、この景観を大切にしたいと思うのと同じ。

私は子供がいないのでもちろん前者の感覚は無い。子供が好きなのも甥や姪を可愛がっているのも、後者の感覚が強いからに他ならない。
秘められた能力、あるいは能力を発揮するであろう将来性、精神的な純真さ(良い子という意味ではない)、身体的な新鮮さなど、多くにおいて子供は大人以上の価値を秘めている。
「財産」という意味では大人以上の宝とは言えないが、「作品」という意味では子供はこの世で最高の宝と言えるだろう。

だが、宝物は得てして管理が面倒だ。突然現れたこの宝物に手を焼いて、捨てたり壊したりする者。他人の宝物を拝借し、御用になる者。たくさんの宝物の管理を任され、気が休まらない先生方。宝物を磨いているつもりで、じつは曇らせていることに気付かない大人たち。
そして宝物同士で傷つけ、傷つけられ、挙句の果てに自らをゴミ溜めに投棄する宝物たち・・・。

子供というものは大人のミニチュアでもなければ、大人の未熟なものでもない。虫や蛙が変態するように、子供は子供として完結しており、大人とは違う対応が求められる。
今まで大人が、子供の心や身体を「大人への成長過程」とみなし、未来の財産としての価値しか見出してこなかったツケが、宝を曇らせる者の出現や、宝自体の質の低下として表れてきているのではないだろうか。

あたかも居間に飾った絵画より、財産として倉庫にしまいこんだ絵画のほうが、より狙われやすく、傷みやすいように。
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by rukachas | 2006-12-23 20:50 | 子供の話 | Comments(0)
仕事はツライ
元気にお仕事数年前のことだが、うちに泊まりに来ていた幼稚園児の甥が、ジイちゃんとバアちゃんに向かってこんなことを言ったことがあった。
「ジイちゃんとバアちゃんはどうして働かないの?おじちゃんばかり働いてて可哀想でしょ!」
私はその場にはいなかったが、あとからバアちゃん(私の母)から聞いた話だ。

小さな子供に定年がどうとか年取ってるからどうとか言っても納得するか分からないが(実際に年を取っても働いている人はいるからね)、それよりも私が意外だなと思ったのは、働いていることを「可哀想」だと言ったこと。
私は可哀想なほどコキ使われてはいないし、仕事の愚痴を言ったこともない。だが甥っ子のこの気遣いは嬉しかった。

親というものは「おまえを一生懸命育てているんだよ」という愛情表現のため、「頑張って働いている」という態度をつい出してしまう。それは子供から見ても有難いことだし、偉いなぁと尊敬できることでもある。
しかし同時に「働くことはツライことなんだ」という印象を持ってしまうことも、あるかもしれない。
私もつい甥っ子の前で、疲れを態度に出してしまうことがある。突然「今日そっちに行っていい?」と電話をかけてきた子に、疲れているからと断ったこともある。このへんも哀れみの原因か。

甥たちには時々「キミたちのお父さんは、キミたちを育てるために一生懸命働いているんだよ」と言い聞かせているのだが、一生懸命働くのが美徳だった時代とは違い、尊敬するべきところで哀れみになってしまっても困る。
かといって「働くのは楽しいことだ」と言うのも、帰りが遅くなる父親に自分勝手さを感じてしまうかもしれないし、う~ん難しいところだね。

仕事はツライよ~。でもお金が入るからね。お金がたくさん必要な人はたくさん働いて、それほど必要じゃない人はそれなりに働いていれば、それが自然な状態。辛さと報酬を秤にかけてニコリとできれば、それは可哀想な人ではないんじゃないかなぁ。
ボランティアの場合は報酬とは人々の感謝の念だったりするわけだが、それもたくさん得られれば幸せなことだ。

一番可哀想なのは、仕事があるのに金がなく、希望もなく、笑顔さえもなくした人たちかもね。
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by rukachas | 2006-12-06 01:04 | 子供の話 | Comments(0)
どこか身構えて不協和音
サンタ昨日の日曜日、2人の甥っ子と、甥の両親(つまり私の妹と義理の弟)とともに、私の家の近くを散歩し、児童公園に立ち寄った。
遊具が数個置いてあるだけの小さな児童公園では、近所の子供たちが元気に遊んでいた。おじいちゃんおばあちゃんらと来ている子もいる。
甥たちも所狭しと駆け回り、私と妹夫婦もそれを眺めていた。

すると突然、見ず知らずの4、5歳の女の子が義理の弟に向かって「お兄さ~ん、上に乗りた~い、持ち上げて~」と呼びかけた。
どうやら、遊具の上に上がりたいので、ダッコして持ち上げて欲しいということらしい。その子は望みどおり上げてもらうと、満足そうに遊んでいた。

ところがその子は、一度降りるとまた同じようにダッコの注文をしてきて、キリがなくなってしまった。義理の弟は2度ほどやってあげたが、その子は3度目に反応が無いとみるや、今度は私に声をかけてきた。
さすがにお兄さんとは言われなかったが、私もその子を抱えてヨイショと持ち上げ、遊具の上に登らせてあげた。

その後この子の動きを見ていると、結構活発な子のようで、実際は本当に自分で上がれなかったというよりも、たんに大人にダッコしてもらいたかっただけのような気がする。
この馴れ馴れしさと図々しさこそが子供の特権だが、それに合わせて大人も馴れ馴れしくして良いのは、たぶん'90年代までだったろう。今は大人のほうから他人の子に馴れ馴れしくするのが危険だということは、誰もが知っていることだ。

昔の私ならこの子としばらく話をしたり一緒に遊んだりもしたろうが、この時は「気をつけてね~」とひとこと言っただけ。しかも内心は「たのむから落ちないでくれよ~」と気が気ではなかった。
というのも、もしこの子がそこから落ちた場合、乗り上げさせた私の責任になるからだ。これは子供から頼まれた事であっても、たとえ怪我をしなかったとしても、世の中にはどんな親がいるか分からない、という意味での不安感である。

ちょっと前のニュースで、ある男性が2歳の子から目を離して歩いていた母親に「子供から目を離すな」という意味で注意をしたら、この母親に「誘拐するぞと脅された」と警察に証言され、逮捕されたという話題があった。
結局この男性は、女性の証言が曖昧だということで無罪になったが、注意されて逆切れする人も多いこの世の中、「誘拐されるぞ」が「誘拐するぞ」に脳内変換されてしまうことも、珍しくないのかもしれない。
以前マイケルジャクソンについての記事でも書いたことだが、大人が子供のことで争い、子供だけが真実を知っているというパターン。

子供の天真爛漫なコミュニケーションの波動にエコーを返してあげて、さらにそこに両親の波動も加わり、心地よい和音に包まれる・・・という光景は決して理想論ではなく、ほんの20年ほど前まではそこら中にあった光景なんだけどね。
現代はサンタクロースでさえも、なんとなく距離を置いた接し方をしなければいけない時代、ということか。
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by rukachas | 2006-11-06 22:25 | 子供の話 | Comments(0)
行き過ぎたフィルタリングは正しい判断を鈍らせる
バイオハザード4月12日に書いた「大人と子供で共に感じよう」と題した記事では、「大人と子供は物事に共感することで意思の疎通が計れるようになる。そのうえで大人は子供に対して必要な情報をしっかりと伝えていこう」という話をしました。
何故このような話をしたのかというと、最近パソコンショップのソフトウェアの広告で、子供への情報フィルタリングソフトをよく見かけるようになったからです。子供が使うパソコンにインストールしておくことで、子供が見るサイトを制限できるソフトです。

多くのフィルタリングソフトには予めデータベースにいくつかの有害サイトが登録されていますが、子供自らアクセスしようとしたサイトがあからさまな有害サイトではない場合(そのケースのほうが多いと思いますが)、見れるか見れないかはページに含まれるキーワードや、親によるセッティング次第といえるでしょう。

となると、子供への悪い影響を考えての選り分けだけでなく、親の主観や思想によって選り分けてしまう可能性も出てきます。子供にジャイアンツのサイトを見せたくないと思うタイガースファンの親もいるかもしれませんし、将来子供に国家公務員になってほしい親は、漫画家やアニメーターになることを推奨するページを見せたくないと思うかもしれません。
つまり、親による「子供に見せたい見せたくない」の選り分けは、必ずしも子供に「悪影響を及ぼす及ぼさない」の選り分けとは限らないということです。

とはいえ、フィルタリングソフトを導入することで少なくとも暴力的なサイトやポルノサイト、出会い系サイトなどに子供がアクセスすることを防げるのですから(完全ではありませんが)、親としては何もしないでいるよりは安心できますね。

しかしここが大事なのですが、インターネットはテレビと違い勝手に映し出されるものではなく、自分からアクセスして見るものです。
子供が有害サイトを見ることだけを問題視する大人が多いようですが、そもそも有害サイトを見ようと思うその子の心の内を、もっと考えてやらなければいけません。壁を作るだけでは乗り越えようとするだけです。

また、ひとくちに有害サイトといっても、暴力、犯罪、自殺、ポルノ、ヌード、セックスなどの単語が含まれているというだけで有害だとフィルタリングされてしまうサイトも少なくありません。
事実このブログも、今これらの単語を書いたために、キッズgooの検索結果からここへはアクセスできなくなったはずです。(フィルタリングされてしまうので表示されない)

ですから、ネットの影響について書かれた文章でよく見かける「暴力、ポルノ、差別など、子供に見せたくないサイト」という文章は、正しくは「暴力、ポルノ、差別などを”推奨している”、子供に見せたくないサイト」とするべきではないでしょうか。
私は暴力やポルノや差別について書かれているページをもし自分の子供が見たとしても、それが悪いことであると教えているサイトなら閲覧禁止にはしません。なぜならこの場合の「影響」は良影響であり悪影響ではないからです。

「そのサイトが文字だけなら良いが、画像が貼られていたらどうするんだ!」と思う方もいるでしょう。
私が言いたいことはまさにこの事なんですが、子供は不快と感じたものへ自ら近づくようなことはしません。近づくとしたらそれは不快ではないからです。
暴力描写にせよ犯罪誘発にせよ性情報にせよ、なぜ大人たちは、子供がそれを不快と感じる幼い頃に、知ることさえも禁止するのでしょうか。

不快だと感じた記憶を有せぬまま育った子が、不快だと感じなくなる思春期を過ぎたあたりで初めてそれらの情報を得れば、好奇心から歯止めが利かなくなるのは当然です。
逆に言えば、それを不快と感じる幼い頃に、自ら見たがったり知りたがった場合こそ、そこから遠ざけるチャンスだということです。

「バイオハザード」というゲームソフトがあります。このゲームは残酷描写のため15歳以上推奨、18歳以上推奨とレーティングが設定されています。つまりショッキングなので小さな子はやらないようにと警告しているゲームなわけです。(あくまでも推奨年齢ですが)

私の部屋にはPS版のバイオハザードがあるのですが、昨年小学3年生の甥っ子がうちに来たとき、このゲームをやりたいと言い出しました。
私は「これは残酷なシーンが多いからやめたほうがいいよ、怖くて泣いちゃうよ、夜眠れなくなっちゃうよ」と言ったのですが、好奇心旺盛な甥は大丈夫だからやりたいやりたいの一点張り。

ならばとやらせてみました。見た目に異質なものは敵であるという印象を持ち、グロテスクに対しある程度の免疫が付く中高生になってからこの手のゲームを知るよりは、不快と感じる歳のうちに自分で判断してほしいと思ったからです。

ゲームが進むにつれてだんだんと画面から離れていく甥っ子。一段と怖い場面では、私にコントローラーを渡して「ここだけやって!」と逃げ腰でした。しかしゲーム性が面白いので、私が「怖いならやめたら?」と言ってもやめようとはしません。かなり楽しんでいるようです。しかし1時間ほどでセーブして終わらせました。

甥は次に来たときも、前回セーブしたところから続きをプレイしていましたが、私はそのあいだ横で見ながらストーリーや状況を説明していました。(この子もいろいろと訊いてくるので)
「この人たちはもとから怪物だったわけじゃないんだよ、怖いウィルスでこうなっちゃったんだよ」「うわ、撃たれた!痛そ~!」「頭が飛んだっ!かわいそ~!」・・・と、ゾンビの哀れさを実況。

甥はその次に来たときからピタリとこのゲームをしなくなりました。「続きやらないの?」と訊いても「もうやらない」と言うだけ。怖いだけでなく不快さも感じてきたんでしょうね。(私の説明が不快だった可能性もありますが・・・)

怖さというのは、そこから離れたあとにジワリジワリとやってくるものですが、罪悪感や不快感もまた然りで、はじめは感じなくてもあとからジワリと感じてくれれば、それが歯止めという良影響になります。
たとえ中学生以上になってこの手のゲームを好んでするようになったとしても、残虐を不快と感じた記憶がある子と無い子では、その後のモラル意識にも差が出てくるように思います。

罪悪感や不快感を感じぬまま過激なコンテンツに触れ、そのインパクトが快感になってしまった子が、歯止めが利かず実際の動物虐待を起こし、その後人間への危害も・・・というケースも、少ないかもしれませんが無かったわけではありません。
もちろん私の甥がそういう子だとは思っていませんが、悪影響ばかりを考えてなんでもかんでも隠す(フィルタリングする)のは、如何なものかと思うのです。

親が説明や道案内をすることを前提としたうえで、子供が自ら「感じて」善し悪しを「判断する」、そんな機会を与えてあげることも大切ではないでしょうか。
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by rukachas | 2006-04-16 23:49 | 子供の話 | Comments(0)
大人と子供で共に感じよう
心の共有最近人と話していると「そそ、そ、それでさぁ」という感じでどもったり、「え~、あの~・・・」と次の言葉がすぐに出てこなかったりと、まるで歯車の油が切れたかのような喋りになるときがある。
もしかして脳の老化現象?ボケの始まり?この歳で?う~んヤバイヨ~!(´Д`;)

ところが、私は子供と話をするときは相変わらず饒舌。言葉が湯水のようにポンポンと湧いてくる。私と子供とのあいだで行き交う「言葉のボール」の弾力性は、一向に衰える気配がない。
それじゃあまるでルイス・キャロルのよう。うん、そうかもしれない。キャロルは私が尊敬する偉人のひとりだし、子供好きという共通点もある。(キャロルのは恋で、私のは愛だが)

親、教師、保育士など、子供と会話をする機会を持つ人はたくさんいるが、そのときキャロルのように子供の気持ちをしっかりと汲んでやれる大人は、はたしてどれほどいるのだろう?さほど多くはないような気がする。
とかく大人は子供に真実をすべては話さず、子供は大人に本心をなかなか明かさないものだ。

それは何故か?大人は心のどこかで計らずとも大人主導型の意識があり、子供の意思テリトリーの外側から管理しようとするからだ。
かたや子供は、大人は自分よりも経験があるのだということを意識するがゆえに、見透かされないよう(バカにされないよう)身構え、自らの気持ちをフィルターに通すことがある。
いつの時代も、大人は「今どきの子供は」と苦言を呈し、子供たちは「大人はわかってくれない」と距離を置く。この距離と不確かな意思の疎通の中で、大人は子供を守ろうとし、子供は大人に依存しようとする。はたしてこれでうまくいくのだろうか?

とあるテレビ番組で、続発する子供を狙った犯罪についてたくさんの大人たちがディスカッションしていた。不審者から子供を守るにはどうしたら良いのか?子供が犠牲となる事件に対して、親や教師はどう対処していけば良いのか?などと、著名人らも交えて侃々諤々の議論を闘わせていた。

私はこのての番組を見ていていつも思うのだが、大人が子供について語り合う場に、なぜ主役であるはずの子供たちがいないのだろう?これはネットの掲示板でも感じることだ。
たしかに子供を守るのは大人の役目であり、子供になるべく不安な思いをさせないためにも大人がバックグラウンドで動く必要はある。しかしこのような重要な事柄は、子供と共にディスカッションをし、互いにどのような意識でいるのかを把握し合わなければ高いセキュリティは望めない。

親は子に「怪しい人に気をつけなさい」と言う。学校では「不審者に注意」と教える。しかし子供はその「怪しい人」「不審者」について、具体的にどういう人なのかを何も知らない。知らないから、大人に対して常に警戒心を持ってしまう。いや警戒心というよりもむしろ不信感といった感じか。
新聞の投書欄にも「近くにいた子供に道を尋ねたら、逃げていってしまった」というお年寄りからの投書もあった。
これは子供にとっては完璧な防御かもしれないが、親しい大人以外とのコミュニケーションができぬまま育つこの子の未来に、私は一抹の不安を感じる。

子供たちにとって不審者という言葉はモンスターと同義語であり、漠然としたイメージしか持っていない。これでは意味がない。己の身を守るためにはまず敵を知ること。これは防御の鉄則だ。
子供には、子供を狙う人とはいったいどういう人なのか、何をしようとしているのかを正確に教える必要がある。それは相手が変質者であっても、精神が異常な暴力的な人であっても同じこと。
子供にそれを意識させぬまま外側から守ってやれるほど、世間の大人はスーパーマンではない。子供自身が敵の情報を正確に知ることこそ、いざというときの防御にもなり、また自ら危険を招かないことにもつながる。

子供への情報をフィルタリングしたり、子供の自由意志を抑制したり、子供の行動に先回りして対処するのも躾や教育のひとつではあるが、子供の意思テリトリーの外側から管理するだけでは、いったいどんな子が育つのやらと心配になってしまう。
子供たちも子供たちで、自分を誇示することを意識するがゆえに、ほぼ同世代のみで戯れ、狭い範囲のコミュニティを形成してしまう。どちらも異世代間の意志の疎通が足りないのだ。

たしかに某巨大掲示板のように、あらゆる世代の会話が入り乱れているところもあるが、それは情報の共有であり意思の疎通とは違う。実際に、相手の歳が自分よりもずっと離れていることを知ったとたん、年配者も若者もそれぞれ相手を見下げるセリフをはくことがよくある。
これでは大人が子供の気持ちを理解することも、子供が将来の自分を見据えることもままならなくなってしまう。子供のセキュリティのためにも、善き大人へと育つためにも、大切なのは異世代間での心地よい意思の疎通だ。

大人と子供が気軽に対話するのはたやすい。しかし、一切フィルターを通さない意思の疎通は難しい。
だがそれを実現するのは「共感」だ。共感するかしないかは感性の違いであり年齢の違いではない。大人による子供の管理は、この共感をベースとしておこなうべき。
ルイス・キャロルがなぜああもアリス・リデル(実在の子)の心を引き付けることができたのか。それはキャロル自身がアリスの心に共感していたからに他ならない。

(ルイス・キャロル = 童話「不思議の国のアリス」の作者)
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by rukachas | 2006-04-12 21:17 | 子供の話 | Comments(0)
「子供好き」という言葉について考える
子供子供が「お馬さんが好き」と言ったら、それはぬいぐるみにしろ本物の馬にしろ、馬というものに好意を持っているということになる。
ところが大人が「私は馬が好きだ」と言った場合は、馬に好意を持っているという意味だけでなく、食材として馬肉が好きという意味にも取れるし、競馬に興じるのが好きという意味にも取れる。
人間にとってはすべて馬に関係している事柄でも、馬にとってみれば優しく世話してくれるのか、食べられてしまうのか、競争させられるのか、その違いは大きい。

これと同じような事例がもうひとつある。私が自分のサイトのテーマにもしている「子供好き」という言葉だ。
じつは私は当初、サイトの説明でこの言葉を使うかどうか大いに悩んだ。
しかし「すべての子供たちを大切にする人」という意味を端的に表した言葉がこれ以外に見つからなかったので、今でも「子供好きサイト」と称している。

何故悩んだのか。それは最近、いやもうずっと前からなのかもしれないが、この言葉がとんだ誤解を持って使われているからだ。

元々「子供好き」は褒め言葉だった。子煩悩な人、子供のことを親身に考える人には敬意を持って「あなたは子供好きですね」と褒め讃えた。
またそのような人も、自ら十分に人に誇れることだった。
ところが子供をただ好んでいるだけの人たちも自らを「子供好き」と称し始めた。
子供を好むから子供好き。文字通りに捉えればたしかに間違いではない。
しかし最初に述べた馬好きの例と同じく、「好き」にも様々な感情があるので注意が必要だ。

「子供好き」という言葉が悪しき誤解を受けやすいひとつの要因となっているのが、子供が犠牲となった事件のニュース報道。
たとえば幼い女の子がイタズラや痴漢の被害に遭い、犯人が逮捕されたというニュースが流れることがよくある。
その中で「犯人は”以前から幼い女の子が好きで犯行に及んだ”と話しています」というナレーションが流れれば、多くの視聴者は「これは”子供好き”による犯行だ」と思ってしまうだろう。
しかしこれも馬好きと同じく、好意を持ち世話をする人、食べてしまう人、私欲のために◯◯する人、と玉石混淆であることを人々は知らなければならない。

このような犯人は子供が好きと言いながらも「子供の◯◯が好き」だったり「子供に◯◯するのが好き」だったりと、子供をモノのように見ているか、あるいは自分の欲求(精神的欲求を含む)を満たすための手段として見ているかのどちらかだ。決して子供そのものを愛しているわけではない。
過去のコラムでも書いたことだが、水族館で魚の世話をする「魚好き」と、魚料理を食べる「魚好き」との違いに等しい。

このような、子供に被害をもたらす「エセ子供好き」から子供を守るのは、立場はどうあれ「子供好き」の人たちでしかない。
人類の明るい未来のためには、子供を愛する感情を地球上のすべての人が持たなければならない。

ただし勘違いしてはいけないのは、これは個人の好みまでは限定しないということ。
子供好きな人たちの中にも、自分の子だけが好き、男の子が好き、女の子が好き、幼児が好き、中学生が好きなどと、明確な好みを持っている人もいるだろう。
だがこれはちっとも悪いことではない。リンゴとバナナどっちが好きというのと同じく、対象が子供であっても人にはそれぞれ好みがあって然るべきだからだ。

だが、そこに「差別心」があっては子供好きとはいえない。
子供が行方不明になったというニュースに対する書き込みで、女の子なら心配だが男の子ならどうでもいい(またはその逆)とか、美人な子は貴重だがブな子はいらんなどの意見を見ると、この人の感情は前述した犯人に近いな、とさえ思える。

年齢、性別、容姿、その子の立場に関係なく、どのような子でも同じように愛し、差別心を持たないのが本当の子供好き。自己犠牲にも近いボランティア精神を持って子供に接することができる人こそ、本当の子供好き。子供という存在そのものを愛している人こそ、本当の子供好き。
保育士や教師には、そんな人になってもらいたい。
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by rukachas | 2006-03-01 22:56 | 子供の話 | Comments(0)
子供好きな有志を募る
天使の質問箱今日の記事はコラムでも日記でもなく、ちょっとした募集の告知。
このブログは私のサイトのコンテンツの一部として置いているんですが、Exciteブログのカテゴリ欄や、検索で来る方も多いと思います。そこでL.O.S.を知ってる方、知らない方ひっくるめての告知なんですが・・・

私のサイトでは、子供たちが書き込んだ質問や悩みに対して大人たちがコメントを返す「天使の質問箱」というものを設置しています。
もともとはゲストブック用だったフリーのCGIスクリプトを一部書き換え、決められた複数の者のみがレスできる質問箱として、2001年にスタートしました。

コメンテーターというかアドバイザーというか、答える方たちは私を含め5人いたんですが、1人減り、いや、今ではほとんど私と市会議員のクリクリさんの2人だけで答えているような状態です。子供たちの質問はたまにしか無いとはいえ、これではちょっと・・・。
ジャンルによっては得手不得手もあるし、全員がいつも答えられるわけではないので、やはりあと2、3人は欲しいところ。

というわけで「子供たちの質問に答えてあげよう!悩みにアドバイスしてあげよう!」という心優しい方が居りましたら、私まで連絡ください。メールでも掲示板でも、ここのコメント欄でもいいので。
ただし、謝礼や報酬は出ませんよ。あくまでもボランティアですからね。

できれば20代の女性がイイなぁ。いや、変な意味じゃなくてね、20代のママさん。現在は20代の方がいないのと、女性がひとりだけなので、子育て真っ最中の20代の女性なら、母親の立場からコメントしてあげられるので良いのではないかと。
そして65歳以上の女性もいればなお良しですね。おばあちゃんの知恵袋から、ちょっとひとつまみ子供たちに分けてあげたい。さらに、現代の中高生の気持ちを理解できる二十歳くらいの方もいればイイな。これは男性でも女性でも構わないと思いますが。

たまにしか書き込まれない質問箱なので、肩肘張らずやっていただけたら嬉しく思います。
おっと、もちろん子供好きな方限定ですよ。気を長~くしてお待ちしております。<(_ _)>
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by rukachas | 2006-02-04 21:56 | 子供の話 | Comments(0)
楽しい会話は葉っぱがいっぱい
語り部べつに自慢するわけではないが、私は子供の心を捉えた話し方をするのが上手いようだ。私が子供たちと話をすると、大抵の子は私の話を食い入るように聞いてくれる。

それは甥や姪だけではなく、去年親戚の結婚式に行ったときに出会った、いとこの子供たちもそうだった。さらに思い起こせば、若い頃、撮影を通じて知り合った多くの子供たちもそうだった。みんな私の話を、楽しそうに目を輝かせながら聞き入っていた。
年少の甥っ子ふたりに至っては、うちにお泊まりしたときは、私の話を聞きながら寝るのを楽しみにしているし、中学生の甥と高校生の姪も、私と話がしたいがためにわざわざやってくることもあるくらいだ。

私は子供に話をするとき、無意識のうちに話すテンポが8割ほどに遅くなり、一音一音正確に伝えようとしていたりする。身振り手振りも大きくなっていき、まるで語り部(かたりべ)だ。
だが食い入るように聞いてくれる子が多いのは、きっとそれだけが理由ではないはず。そう思って客観的に考えてみると、2つほど理由が浮かんだ。

ひとつは私の声質。じつは私は非常に通りにくい声をしている。といっても、こもっているとか野太いとかダミ声というわけではない。多分これといって特徴の無い声だろう。
しかし距離に対する減衰率が大きい声だということは、学生の頃からわかっていた。授業中、教師に何度「聞こえねぇぞ~!」と言われたかわからない。卒業式の予行演習で、名前を呼ばれた時のハイと言う返事が小さいと、何度も反復させられたこともあった。
目の前の友人が言うには、声の大きさは決して小さくないらしい。ただ、どんなに大声を出しても、数メートルも離れるととたんに減衰してしまう。つまり言ってみれば、空気に溶け込みやすい声だということ。

まずこの声質が、子供たちを聞く気にさせるのかもしれない。幼稚園の先生などがよく使う手だが、騒いで注目しない子の注意を引きつけるため、わざと声を聞こえにくくしてしゃべるのと同じ効果があるのかもしれない。

2つ目の理由は、私の話す、妙に説明的で回りくどい文章にある。本題をストレートに伝えず、他のモノに例えたり、主題をわざと逸らしたりまた戻したり。
たとえばショートケーキを食べたことを伝えるとする。簡単に言えば「イチゴのショートケーキを食べた。とても美味しかった」と、これだけで済む。
しかしこれでは食べたことしか伝わらない。そこでイメージをたくさん付けるわけだ。「目が痛くなるほど真っ赤な色をしたイチゴ」「クリームで飾り付けられたスポンジが女王様のベッドのよう」「カチャカチャと音を立てるお皿」「スプーンには何が映る」
さらに「あまりの美味しさに思わず・・・」とくれば、次の句が気になりもする。

子供は言葉を聞くと、すぐにそのイメージが頭に浮かぶ。よってこのようにイメージがちりばめられた話ほど、気を引きつけられやすい。もっともただの無駄話なら「結局何が言いたいの?」と飽きられてしまうが。

会話に限らずブログにしてもメールにしても、言いたいことはできるだけ簡潔な文章で伝えるのが良いとされている。もし物書きのプロが私の文章の校正をしたら、きっと半分以下に縮められ「無駄な言い回しが多い」とかなんとか言われるだろうね。
だが肝心なことを忘れてはいけない。簡潔な文章で伝えたほうが良いのは相手が大人の場合。そのような文章は、木に例えるなら枝の無いまっすぐな大木だ。幹(話の本筋)がしっかりと通っていれば良い。

ところが幼い子供を楽しませる会話となるとちょっと勝手が違ってくる。幹は多少細くても良い、まっすぐじゃなくても良い。その代わりたくさんの小枝(分岐)があり、たくさんの葉っぱ(イメージ)が付いているような会話が、子供たちの心を引きつけるのだ。

ついでにもうひとつ。私は子供たちと話をするとき、最初に質問から入ることも多い。「宿題は何だった?」とか「最近なんか映画見た?」とか何でもいいのだが、それに対して返ってきた返事を、次の会話のテーマにすることがよくある。
これはその子の嗜好から会話が的外れにならないための手立てでもあるのだが、相手の返事に含まれる言葉を頼りに会話を移り変えていくというのは、会話をだらけさせないひとつの手法でもある。

つまり、楽しい会話の基本は「言葉の連鎖」だ。連鎖があるから自分がしゃべるだけじゃなく相手の話もきちんと聞くし、意外な本音が飛び出すこともある。妙に説明的だったり回りくどかったとしても、そこには不思議の国のアリス的な楽しさがある。

子供たちが私の話に聞き入る理由として、最初に言った声質うんぬんは思い込みかもしれないが、「イメージの葉っぱ」をたくさん付けた文章と「言葉の連鎖」をふんだんに使った会話というのは、あながち見当違いでもないだろう。これらを全部ひっくるめて、子供を引きつける話術というのかもしれない。
私が文章を書くとき、1、2行で済む内容で10行も20行も書いてしまうのは、このような子供たちに対する会話がすっかり癖になってしまったからだ。

去年、私のいとこの子である小学2年生の女の子は、初対面の私に色々と悩みを打ち明けてくれた。内容については明かせないが、最初に出会ったとき、寂しそうな表情がとても印象的だった。
私はこの子と公園のブランコに座りながら話をし、月の満ち欠けの例え話でこの子を笑顔にすることができた。この月の話も、たくさん葉っぱを付けた何気ない会話から、連鎖で生まれたものだった。
教訓めいた話も、ただ聞かされるだけでは納得しづらい。いや、それ以前に共感しづらい。だが会話の中で自然に流れるように生まれた例え話なら、小さな子の不安感をも和らげてあげることができる。

思春期の子を持つ親の中には、子供とほとんど話をしない人も多いと聞く。子供も、すぐに言い合いになるからと、親との会話を避けるようになる。
だがそれは、互いに話がストレート過ぎるからだ。太い幹だけの大木をぶつけ、用件だけ伝えれば良いというものではない。七夕の笹の葉のように、たくさんの葉っぱが付いたそよそよとした話をたくさんしてみるべきだ。
伝えなければいけないことは、たんざくにでも書いて吊るしておけば、自分で手に取るだろうから。
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by rukachas | 2005-11-12 21:54 | 子供の話 | Comments(0)
一寸の虫にも50センチの墓
カブトムシこの前の日曜日、甥と姪をつれて、家から3キロほど離れたところにある大きめの公園へ出かけた。
そこでキャッチボールやサッカーをして遊んだのだが、結構カブトムシやカエルなどがよく見つかる公園なので、昆虫好きの甥っ子4号くんはボール遊びも手短かに、目を皿のようにして昆虫探しに没頭していた。

結局欲しい昆虫は見つからなかったが、木の根元でピョンピョン飛んでいるアマガエルを数匹ゲット。でもそんなに捕まえてもあとの餌やりが大変だということで、1匹だけを空き缶に入れて家まで持ち帰った。

家に着くと、親父が庭でカマキリを捕まえたとかで、4号くんのためにビニール袋に入れて置いてあった。
結局4号くんはこの日「アマガエル」と「カマキリ」、さらにこのあいだ親父たちが東北旅行したときに4号くんへのお土産として持ち帰った「3匹の沢ガニ」と、3種類計5匹の生き物をゲットしたわけだ。

ところがその日迎えにきた4号くんのママ、つまり私の妹が、これを見るなり「もぉ~困るよ~!!!」と絶叫。すでに家の中が生き物だらけなんだそうだ。カメにザリガニ、カブトムシにクワガタ、その他いろいろいろいろ...。(^^;)
ママいわく。「すぐ死んじゃって、もう今までに庭に何匹埋めたかわかんないよぉ~」
私はそれを聞いて、庭に埋めるのは誰がやっているのかと訊いたら、「全部あたしがやってんだよ~!」だって。

おいお~い、それじゃダメだろ!
子供が昆虫採集をしたり、虫や小動物を飼うことはそれなりに大切だ。世話する心を学ぶだけでなく、命の尊さと儚さを実感として学ぶことができるからね。
しかしそのためには、死んだら土に埋めて、お墓を作るところまで本人にやらせなきゃまったく意味がない。親が勝手に処分してしまったら、子供は何も学ばず、またすぐに元気な虫を飼おうとするだけだ。

デパートのカブトムシ売り場に、死んでしまったカブトムシを持ってきて、売り場のおじさんに「これ壊れたから直して」と言った少年がいた、という話をどこかで聞いたことがある。
最近は「ムシキング」という、昆虫を戦わせるアニメやらゲームやらが流行っているそうだが(4号くんもこれのファン)、哀れみのない飼い方だけはしてほしくないと思う。

生き物をオモチャのように扱ってはいけないのと同じように、たとえ虫でも、飼っているものが死んだらゴミのように扱うべきではない。最後にお墓を作るところまでやらせて、初めて飼ってきたことの意義が生まれるんじゃないだろうか。
庭がない家は、近所の公園の周りや空き地に埋めるしかないが、いずれにしても、子供たちが自分で土を掘り、埋めて、お墓を作るという行為は、生き物に対する最終的な責任なわけだから、絶対に飼っていた本人にさせなければいけない。(虫や小動物の場合ね)

・・・ということを妹に言ったら、分かったような分からないような表情をしていたが、子供の頃から動物の世話をしてきた妹だからこそ、つい自分でやってしまうのだろう。
4号くん、最後までちゃんと世話しろよ!三日坊主だったらオジサン怒るぞ~!(。・_・。)
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by rukachas | 2005-10-28 01:02 | 子供の話 | Comments(2)
Cute、Pretty、Beautiful、そしてMystery
母子私のサイト「The Light of Smile 笑顔の灯り」に、子供の話題専用の掲示板を設置してみました。
なぜか私のサイトは、BBSへのアクセス数が他のページに比べ極端に少ないのです。それはたぶん、交流や共有目的で来る人よりも、情報を得る目的で来る人のほうが多いからでしょう。それはそれで有り難いことですが、やはり会話から新たな情報を組み立てていきたいという思いもあります。

そこで思いついたのが子供について語るBBS。車好きが車について熱く語ったり、映画好きが好きな映画について語る掲示板があるように、子供好きが子供の好きなところを語り合う掲示板があっても良いのではないかと思ったからです。
子育て論だとか教育論だとかお堅いことは抜きにして、幼児の舌足らずなしゃべり方が可愛いとか、少女の繊細さに夢を感じるとか、少年の純真さに心躍らされるとか、成長期の姿態は芸術的であるとか、心の成長に日々驚かされているとか、なんでもいいんですけどね。子持ちも独身もざっくばらんに語れる場になればいいなと。ヾ(*'-'*)
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by rukachas | 2005-09-26 23:02 | 子供の話 | Comments(0)