子供大好きRUKAの雑記帳
by RUKA
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タグ:子育て ( 48 ) タグの人気記事
過剰な規制は心の栄養失調
規制当サイトのアクセスデータを眺めていると、最近とくに携帯電話からのアクセスが増えていることに気が付いた。
うちは携帯向けサイトではないので、レイアウトも画像もパソコンでの表示に合わせているし、文章もそれなりに長い。だがきっと最近の携帯電話は、通常のウェブページもPCのようにサクサク見られるのだろう。
私もiPhoneと、接続料を気にしない懐の余裕さえあれば、出先でも頻繁にサイトチェックしたいところだ。

携帯でネットというと思い浮かぶのが、今年から義務付けられた未成年者の携帯への有害サイトアクセス制限(フィルタリングサービス)。結局は導入しない人も多く、子供の携帯でさえこの規制を解除する親もいる。理由は有害ではないサイトまでもが使えなくなることがあるから。
まさか私のサイトがフィルタリングされることはないと思うが、公式サイト以外へのアクセスを制限する「ホワイトリスト方式」では、事実上ここも制限されたようなもの。L.O.S.は子供たちにこそ見て欲しいサイトなのに。

だいぶ前になるが、検索サービスgooの子供向けサイト「キッズgoo」で私のサイトを検索したことがあった。そのときは「天使のアルバム」のページが表示されない(フィルタリングされてしまう)ことがわかり、その理由に大いに首をひねったものだった。(このときは「妹」という文字を消したら表示された)
昨日改めてもう一度、どのページがキッズgooのフィルタリングに引っかかるのかを検証してみた。キッズgooの検索窓に「笑顔の灯り」と入力して検索すると1件目に「The Light of Smile 笑顔の灯り」と出るのでそれをクリック。
こうしてサイト内を順に見ていくと・・・

◯【トップページ】 ・・・ 問題なく表示
◯【サイト概要(大人の方へ)】 ・・・ 問題なく表示
◯【サイト概要(こどもたちへ)】 ・・・ 問題なく表示
×【天使のアルバム】 ・・・ 表示せず (過去に「妹」がNGワードであることが判明)
×【発表の広場】 ・・・ 表示せず (これも「妹」という文字のせい?)
◯【甥っ子天使くん】 ・・・ 問題なく表示
◯【知識と心のDNA】 ・・・ 問題なく表示
×【公園レポート】 ・・・ 表示せず (モザイクという言葉に反応か?)
×【天使の質問箱】 ・・・ 表示せず (何がNGワードかわからない)
◯【童謡&子育て投票】 ・・・ 問題なく表示
◯【笑顔をくれた天使たち】 ・・・ 問題なく表示
×【壁紙と音楽】 ・・・ 表示せず (まさかブーグローの絵を問題視?)
×【スクラップブック】 ・・・ 表示せず (何がNGワードかわからない)
◯【My Favorite】 ・・・ 問題なく表示
△【RUKAの雑記ノート】 ・・・ 記事内容によって◯だったり×だったり
×【歩み】 ・・・ 表示せず (何がNGワードかわからない)
×【掲示板(BBS)】 ・・・ 表示せず (ワイセツという言葉に反応か?)
×【お友だちリンク】 ・・・ 表示せず (何がNGワードかわからない)
◯【検索エンジン集合】 ・・・ 問題なく表示

とりあえず各カテゴリの最初のページだけだが、こういう結果だった。キッズgooがいったい何を基準に規制しているのかはわからないが、言葉を削っていくと表示されるようになるので、ページ内の言葉でフィルタリングしているのは確かなようだ。

しかし解せないのはその言葉の選び方。「天使のアルバム」の「れお君(兄) あいりちゃん(妹)」という文章のどこが表示規制に値するというのだろう?「発表の広場」の「誕生日&妹の七五三」というタイトルも同じ。
フィルタリングされたその他のページも、キッズgooを通さずに表示して文面をよ~く見て欲しい。どこに問題があるのかわかるだろうか?私はまったくわからなかった。
たぶん私のサイトを見たほとんどの人が「キッズgooではなぜこのページを表示させないの?」と疑問に思うはずだ。

このブログも子供画像掲示板もすべて表示できないわけではなく、そのときの記事によってフィルタリングされたりされなかったりしているので、サイト自体を規制しているのではなさそうだ。
だが、たとえば「ワイセツな文章は投稿しないでください」と書いただけでワイセツサイトと同じ扱いをされたり、犯罪という言葉があるだけで犯罪サイトと同じ扱いをされるのには困ったものだ。

携帯電話の「有害サイトアクセス制限」はこんな単純な言葉規制ではないと思うが、子供たちを守るべきフィルタリングで子供たちが正しい知識を得られなくなったり、良い方向に導く術さえなくなるのなら本末転倒。
現行のフィルタリングを信頼しきっているパパさんママさん方は、ネットの有害性を恐れる前に、それを知る有益性も踏まえたうえで、子供と共にフィルタリングの是非を問うてみよう。

汚れがどこにもないクリーンルームで育った子供は、クリーンルームでしか生きられない。それは子供を育てている人なら誰もがわかっているはず。
しかし子供をクリーンなままでいさせたいと思う者ほど、自分自身は結構汚れているものだ。子供を汚れさせない、それはすなわち、親子のあいだに分厚い壁ができることなのかもしれない。
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by rukachas | 2008-08-14 01:52 | Net&Webの話 | Comments(0)
子供の自主性を伸ばそう
金魚先日地元で夏祭りがあり、私と11歳の甥と私のオフクロの3人で駅前まで出かけた。
駅前の大通りは歩行者天国になっており、沿道にはたくさんの露店が軒を連ねていたが、とにかくもの凄い人ごみで、手でかき分けないと進めないほどの混みようだった。

神輿などの催し物を見て回り、デパート内でちょっとした買い物を済ませたころ、甥が「金魚すくいがしたい」と言いだした。ここへ来るまでに金魚すくいの露店はまったく見かけなかったが、まぁ探せば見つかるだろうと、私と甥は露店が立ち並ぶ大通りへと向かった。
甥は後ろにいる私やおばあちゃんのことなど気にもせず、大通りの右側の歩道を歩きながら金魚すくい屋を探し始めた。せっかくの歩行者天国なのに歩道を歩いていては、すぐ横の露店しか目に入らない。私は甥に向かってこう言った。「ここ歩くよりも、道路の真ん中へん(車道側)を歩いたほうが、道の両側の店が見れるから探しやすいんじゃないか?」

甥は店探しに夢中で、私の問いかけに答えずにキョロキョロしている。すると後ろにいたオフクロも私と同じ考えだったようで、「道路のほうから探さないと見つからないよ。ほらっ、◯◯◯(甥の名前)に”そっちの道歩きなさい”って言いな!」と、私に甥を説得するよう促した。
私は甥の肩をたたいて呼び止め、人ごみのざわめきの中、甥の耳元でもう一度同じセリフを言った。「ここじゃ見つからないから、向こう側から探そう」
すると甥は「いや、いい、こっち探す」と言ってそのまま歩き続けた。私は甥の真剣な表情を見て「そうか、わかった」と納得。それ以上は何も言わず再び甥の後ろを付いて歩いた。

すると後ろから、ちょっといら立ったこんな声が聞こえてきた。「あんた!そんな小さい子に言うこときかせることもできないの!?」
オフクロが私のことを「あんた」と言うときは、大概イライラしている時だ。別な道を歩こうという大人の指示に従わなかった孫に対して、そして子供に言われて「そうか」と簡単に引き下がった私に対しての、両方に怒っているようだった。

おそらくオフクロは、私が甥の言いなりになっているような印象を受けたのだろう。だが私がこのとき甥の言葉に従ったのは、子供の自主性を尊重したからだ。
自主性とは「自分に関することを自分の判断で決めておこなう態度」のこと。甥が自分で「これでイイ」と決めたのだから、自己責任も兼ねてやらせてみようと思ったからだ。

じつはこのとき道を変えずにいてまさにビンゴだった。甥が再び歩きだしてからほんの5メートルほど行った所で、金魚すくいの露店が見つかったのだ。しかも車道側ではなく歩道側に向いている店だったので、その場ですぐに始めることができた。
つまり甥のカンがズバリ当たったわけだが、もしこのとき車道を歩いていたらこの店は見つからなかっただろうし、見つかったとしても反対側を向いていてプレイできなかったはず。そうなれば車道側を歩かせた私は立つ瀬がない。
この子が自分で決めた道ならば、もし見つからなかったとしても誰が悪いわけではない。子供の自主性を伸ばすためには、大人が妥協することもときには必要だ。

このくらいの歳の子の場合、自主性をいかに伸ばしてあげられるかが性格形成においても大きなポイントとなる。
よく、子供可愛さのあまりなんでも先回りしてやってしまう親とか、良い結果に導いてあげてばかりいる親とか、あとあと面倒くさくなるのが嫌で子供には決めさせないという親とか、そんな、子供の自己決定権を奪ってしまう親は少なくない。
学校では、子供の自主性を伸ばそうとあれこれ取り組んでいるのに、親がその芽を摘んでしまっては元も子もない。

現代はお膳立てやマニュアル、他人の助言がないと上手くいかない、あるいは不安だと感じる人は多い。最近のスピリチュアルブームは、そんな人間が増えたことを暗示しているのではないだろうか。
また、お膳立てやマニュアルは上手くいかなかったときに責任を押し付ける対象にもなる。つまり自主性を伸ばさない子育ては、責任転嫁気質を育てることにも繋がってしまう。
「いいからこっち来なさい!」「そんなことしないの!」「早くしなさい!」・・・あなたも、子供が主役の用事なのについ大人側の気分で決定し、子供にそれを強いたことはないだろうか?

自主性とか自己決定権というと、下手をすればワガママや利己主義の助長と捉えられてしまいがちだが、危険でもなく他人に迷惑をかけるのでもないなら、子供に自己責任を問える範囲内で子供の自主性に任せてみることが大切。
ただ「自己責任」というところを軽んじると子育てとしてはマイナスに作用してしまうので、そのへんの兼ね合いが大人の技量の見せ所であり、またそれこそが「しつけ」であると思う。
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by rukachas | 2008-07-29 21:29 | 子供の話 | Comments(0)
「幼少期の反抗はガス抜き」反社会的な大人を作らないために
反抗期先週、小学生の甥っ子の運動会に出席するため、遠く離れた妹の家まで出かけた。そこで「子供の反抗期」について語る機会があったので30分ほど議論してきたのだが、私は最近この「反抗期」について非常に関心を持っている。
理由は二つ。ひとつは、私の甥っ子4号くんが現在「思春期&反抗期」のまっただ中であること。
そしてもうひとつは、最近「正しい反抗期を経ずに育ってきたであろう者」による犯罪が相次いでいるからだ。

私はその日の夜、家に帰ってきてニュースを見て驚いた。東京・秋葉原で起きた衝撃的な通り魔事件。静岡県に住む25歳の男がトラックで秋葉原の歩行者天国に突っ込み、通行人をはねたあと車から降りてナイフで手当り次第に殺傷したという、7人死亡10人負傷の大惨事。
その後の調べで、この男は携帯電話サイトの掲示板に犯行直前まで逐一書き込みをしていたことが判明した。内容は毎日jpの記事を参照。
毎日jp 6月9日の記事

午前5時21分に「秋葉原で人を殺します」で始まって、犯行直前に「時間です」で終わる断続的な書き込みには、まるで自分が映画の主人公にでもなったかのような身勝手さが表れている。
しかし私がもっとも気になったのは、この男が書き込んだ文面のこの部分。
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午前6時02分 いい人を演じるのには慣れてる みんな簡単に騙される
午前6時03分 大人には評判の良い子だった 大人には
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報道によると、容疑者は高校時代に成績で挫折を味わったらしいが、小中学校時代は優等生で、周りの大人からはとても良い子と見られていたらしい。
しかしその「良い子」も、容疑者本人に言わせれば「いい人を演じるのには慣れている」となるわけだ。なぜ良い人に「なる」のではなく、良い人を「演じる」ことになるのか?

それは、幼少期の親の育て方に問題がある。
私はこのサイトを通じて過去何度も『軍隊式の子育て』『良い子を強制すること』『児童の無邪気さを奪うこと』は、百害あって一利無し、まともな人間が育つわけがないと警告してきた。今一度、声を大にして警告したい。

親はしつけのため、子供の言動を抑制したり強制することがある。ときには誰にも迷惑をかけていないことで叱ったり、恐怖と威圧で強引に従わせることもある。
しかしそれが子供にとって理不尽な要求であったり、本能的に持っている無邪気さや放縦さ、天真爛漫さを抑え込むようなしつけであった場合は、子供の心に次第に抑圧による膿みがたまっていく。

少年や若者による犯行の事件報道で、過去何度も繰り返されたこの言葉、「子供の頃は良い子だった」「親の言うことをきく素直な子だった」等々。
しかし親や周りの大人たちの前でだけ、良い子を演じていただけなのかもしれない。演じなければいけない状況を、大人たちが作っていたのかもしれない。

事実この容疑者はネットの掲示板に「小さいころから「いい子」を演じさせられてた」と、親への不満を書き連ねていた。
また、幼少期に親に理想を押し付けられ、自分の感情を抑えて育ちながらも、親は下の弟ばかりを可愛がっていた、という報道もなされている。

今回の秋葉原だけでなく、今年はこのような通り魔事件が立て続けに起きている。
記憶に新しいものでは、3月に茨城県土浦市の荒川沖駅で、24歳の男が包丁とナイフで通行人を次々と襲って8人を殺傷した事件があった。
容疑者は高校時代に弓道部に所属し、学校関係者は「まじめで一生懸命やる子だった」と証言している。しかし大人になってからはキレやすい性格だったらしい。

どちらの容疑者にも共通しているのは、世の中がイヤになったという感情が、見ず知らずの人を殺そうという発想に繋がっていること。(幼少期の愛情不足)
自分の身の逆境を、他の人間に責任転嫁していること。殺すのは誰でも良かったと、自分以外の人間をモノのように見ていること。(人との心の繋がりの希薄さ)
大人になるにつれキレやすい性格になった。(幼少期の心の抑圧による)
そして、子供のころ周りの大人には「真面目で良い子」と映っていたこと。

運動会で子供たちの元気な姿を見たあとだけに痛感した。今の子供たちを、こんな性格の大人にしてはいけないと・・・。
そのひとつの対策として、せめて小学生の頃には思いっきり悪ガキになれて、ふざけられて、大人に反抗できる定期的な「ガス抜き」が絶対に必要だ。
「うちの子は反抗ばかりして言うことをきかない」「いたずらばかりしている」と嘆いている親御さんに私は言いたい。親の言うことをなんでもハイハイと聞いて手のかからない子よりも、ずっと安心して良いですよ...と。

とは言っても放任ではいけない。親は子供にモラルを教え、他人に迷惑をかけないためにキチンとしつける必要がある。子供の心を壊さないまま正しくしつけるにはどうしたら良いのだろう?
このブログのサイドにあるタグ「子育て」をクリックすると、私が書いた子育てに関する記事が表示される。その中には子供の心を扱った記事も少なくないので、子育てをしている親御さんにはぜひご覧になっていただきたい。
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by rukachas | 2008-06-10 22:17 | 子供の話 | Comments(0)
子供に死を教えない親たち
悲しみの天使福岡県のとある小学校で、5年生の担任の男性講師が授業で自殺の方法について言及したとして、学校側と講師が生徒の親に謝罪したというニュースがあった。asahi.comの記事から一部を引用。
asahi.com 5月30日の記事

----- ここから引用 -----
学校の説明によると、担任は28日、国語の授業の冒頭で自殺について触れた。「睡眠薬と多量のアルコールを一緒に飲むと死んでしまう」「投身や溺死(できし)、練炭を使うこともある」などと述べた。そのうえで、「みんなの誕生は多くの人の喜びの中で迎えられた。命を大切に力強く生きてほしい。自殺はしてはいけない」と自殺の防止を訴えた。
担任は学校側に対し、「児童から『こわい話をして』と要望されていた。フリーアナウンサーの自殺を想起し、話した」と事情を説明した。
----- ここまで引用 -----

児童から話を聞いた保護者が県の教育委員会に「先生が授業で自殺の方法を話した」と通報したらしいのだが、私はこれを読んで「またバカ親のクレームか」と正直やるせなくなった。

イジメなど他人の命を軽視したり、自分の命を捨てようとさえする小中学生も少なくないこの現代、この講師がおこなったことは、生徒に自殺への嫌悪感を持たせるためにも有意義なことだ。
「人はこうすると死んでしまう」という情報は、5年生にとっては立派な人間学習。生徒から「なにか怖い話して」と言われたのなら、ありもしないオバケ話をするよりも、人間の命はこんなことで終わってしまう、それこそ怖いことだ、と教えることは教育者としてなんらおかしなことではない。

もしこの子らが家庭で自殺のニュース報道などを見たとき、父親に「自殺って他にどういうのがあるの?」などと質問したら、おそらく大部分の親は「そうだなぁ、首吊りとか飛び降りとか・・・あと焼身自殺する人もいるなぁ」という感じで普通に話すことだろう。講師が授業で話したときだけNGとする理由はない。
「睡眠薬と多量のアルコール」「密閉された部屋で練炭を使うと死に至る」という情報は、小学生でもぜひ知っておくべき知識だ。

このようなことにクレームを付ける親は、「死」「犯罪」「性」などの情報をシャットアウトすれば真面目な子供が育つとでも思っているのだろうか?むしろ情報を選り分けたり判断する能力が育っていかない分、思春期を過ぎたあたりで道を踏み外しやすくなるというのに。

ショックを与えるから、子供は知らないでいて欲しいからという理由だけで人間社会の真実を教えない困った親たち。そうしているあいだにも、子供たちはテレビや雑誌などの様々なフィクションに影響を受けている。
自殺の方法を教えたからといって文句を言っている親たちは、道徳教育とは死の概念をも含んだものであるということを知っておいてほしい。
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by rukachas | 2008-05-31 14:14 | ニュースの話 | Comments(0)
公平な不公平
カラオケ今日、気になるニュースを見た。
中日新聞5月21日の記事「深夜入店の子連れ親とトラブル」
----- ここから引用 -----
静岡県教育委員会が青少年に関する条例の「青少年」の定義を、現在の「小学校就学から18歳未満まで」から「18歳未満すべて」と改正を検討していることが分かった。青少年の入店が禁止されている深夜の遊興店で、子ども連れの親が「幼稚園児はいいのに、どうして小学生は駄目なんだ」と店側にクレームを付けるなど、年限がトラブルの元となるケースが増えているためだという。
----- ここまで引用 -----

私から見れば、深夜の遊興店やカラオケ店に子供を連れて行く親は、子供が幼稚園児だろうが小学生だろうがどちらもバカ親としか思えないのだが、抗議した親は小学生も入店OKになると思っての真面目な抗議だったのだろう。

ところが意に反して、条例はどちらもダメの方向で動き出してしまった。不公平さをなくすためにハードルを上げ、より厳しくしたわけだ。おやつの数の違いで文句を言った兄弟に「どっちもおやつ無し!」としたようなもの。
利用していた幼稚園児の親は、抗議した小学生の親に「いらんことすなっ!」と思ったかもしれない。

じつはこれと同じようなことがテレビなどのメディア界でもあった。
かつて日本のテレビ番組には、元気さ、微笑ましさの象徴として裸の男の子が幾度となく登場してきた。ドリフターズのコントで裸の子が走り回って会場を和ませたり、オムツのCMにも赤ちゃんが素っ裸で登場していたものだ。

ところが数年前から「男の子の裸は映すのに、なんで女の子の裸は映さないんだ!」という声がチラホラ。直接テレビ局に抗議した者がどれだけいるかは知らないが、不公平だという言い分だ。
ジェンダーフリー精神のようにも見えるが、おそらくほとんどは男性の好色さによるものだろう。

結果的にはどうなったかというと、なんと今では男の子の裸も映さなくなってしまった、というオチ。
まだ規制ではなく、BPO(放送倫理・番組向上機構)が各テレビ局に自粛を促している状態だが、結局「なんで女の子はダメなんだ!」という意見から「じゃあ両方ダメにしましょう」という結果になるという、先に述べた深夜の子供入店のケースと同じ展開。

海外と日本を比べて、日本のほうが規制が厳しいと抗議することは意味あることだと思う。日本は海外の法律までは動かせず、動かすのは日本側のハードルだからだ。
しかし、日本の法律や条例の中での不公平さに抗議した場合、ともすれば厳しいほうにハードルを合わされてしまうことがある。

今日本が抱えている様々な問題に言えることだが、物事が社会に与えている影響によって規制の度合いを量るべきなのに、単純に一律にしようとするからどこかで歪みが生じてしまう。
政治家が個人的な感情でむやみにハードルを上げることは国民のためにならないが、国民も個人的な感情のみで抗議していると、結局は自分たちのためにならない結果が待っているだけかもしれない。
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by rukachas | 2008-05-21 20:50 | ニュースの話 | Comments(0)
世代間の感情ギャップ
お年寄りと子供世代間のギャップはいつの世にもあるもの。先月末、春休みでうちに遊びに来ていた11歳の甥っ子が、夕食のあと私にこんな悩みを打ち明けた。
「あのねぇ、ボクばあちゃんがすることで嫌なことがあるんだ。ばあちゃんさぁ、食事のときボクに”これも食べな、あれも食べな”っておかずをボクのご飯の上に乗せるでしょ?そんときばあちゃん自分が使った箸でつまむじゃん、あれヤなんだよなぁ・・・」

なるほど。赤ん坊や幼児ならともかく、他人の使った箸やコップを汚いと思うのは、このくらいの歳の子にはよくあることだ。この子は祖父と祖母にハッキリ物言う子ではないので、私を介して伝えたかったのだろう。

その数日後、甥は大好物のとろけるプリン(永谷園)を作り、3分の1だけ食べてあとは冷蔵庫に入れて冷やしてとっておいた。
ところが次の日の夜になっても冷蔵庫に入ったままなので、私は何故食べないのか甥に訊いてみた。すると甥は悲しそうな顔で一言。「プリン食べられなくなっちゃた・・・」
話を聞くと、昼間ばあちゃんに冷蔵庫からプリンを出してもらい、受け取ろうとしたとき、ばあちゃんが「これどんな味するの?」と言いながらスプーンですくって一口食べ、そのスプーンをまたプリンの中に戻したので食べられなくなったと言うのだ。

う~ん、ちょっと潔癖過ぎやしないか?それ以前にばあちゃんに対してよそよそし過ぎやしないか?
もしレストランで赤の他人がペロペロ舐めたスプーンを突っ込んできたら、そりゃあ「マナーのなっていない人だな」と思うだろう。しかし幼い頃から親しんできたばあちゃんの小さなスキンシップに対してもその反応じゃ、あまりに他人行儀で心無い。

ばあちゃんに悪気はまったくなく、むしろ孫との馴れ合いの中で自然に出た行為だ。しかしお年寄りと一緒に暮らしていない甥には、これが奇妙な行為に見えたらしい。
甥には「ばあちゃんのスキンシップだよ。お前と仲イイからついやっちゃうんだよ」と伝え、オフクロには「多感な時期にはそういうの嫌がるから、少し配慮したほうがイイよ」と伝えた。
だが世代間のギャップはかなり深そうで、返ってきた言葉を聞く限り、双方とも理解は難しかったようだ。

この子が、産まれたときからおじいちゃんおばあちゃんと暮らしていれば、お年寄りとの意思疎通もスムースにいくだろうし、そんなに嫌悪感を感じない子になっていただろう。
そしてオフクロも、毎日孫と一緒に生活していれば、現代の子供たちの気持ちも理解できるだろうし、もっと配慮もできるはずだ。
お年寄りと小さな子供が一緒に暮らしている家庭は双方とも得るものが大きいし、核家族化が進んだ現代でも、やはり家族の理想系ではないかと思う。

えっ?うちも私が結婚して子供を作れば済むこと?・・・な、長くなってきたのでこのへんで。( ̄▽ ̄;A
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by rukachas | 2008-04-07 21:31 | 子供の話 | Comments(0)
する偽善より、伝える善心
善意いつだったか、どこかの掲示板で見た会話だが、マザーテレサが「人に尽くすことが私の喜びである」という意味のことを語ったという話を受けて、ある男性が「なぁんだ、結局は自分のためにしてんじゃん、偽善者だな」と、こんなことを言っていた。(正確な会話は憶えていないので、こんなニュアンスだったということ)
私はそれを見て、「偽善」という言葉をそういう意味で捉えている人もいるのかと、少々意外な心境だった。

たとえば、自分がキレイ好きだから近所の道端も掃除するとか、人に親切にするのが好きだから人助けするとか、そういうのは理由はどうであれ、偽善とは言わないのではないだろうか?
「偽善」という言葉を辞書で引くと、「善いことをしているように見せかけること」とある。つまり、一見善いおこないのように見えて、じつは悪いおこないであること、それが偽善だ。

独り暮らしのお年寄りの家を訪れて、床下がどうだ水道水がどうだと言ってバカ高い機材を売りつける訪問販売がニュースなどで取りざたされるが、このように、相手のためになることをしているように見えて、じつはちっとも相手のためになっていない、これを承知の上ですることを「偽善」と言うのだと私は理解している。

だから、人を助けたり親切にするのは、その理由がたとえ「自分がしたいから」であっても、その行動が人のためになっているのなら、それは立派な「善行」であり決して「偽善」ではない。
そうでなければ、善は無償の愛のみになってしまい、警察官や医師などを目指す者の志が空しく感じられてしまう。

ボランティア活動も身近な親切も、善行のもっとも理想的な形は「他人のためにしていることが同時に自分のため(喜び)にもなっている」という形だ。
人類は最小単位の家族から最大単位の国家まで、そうした善意の成り立ちによって発展してきたわけで、逆に言えば、自分の気持ちを犠牲にした善行は、表向きは他人のためであっても、その世界を決して良い方向には導かない。

それに関連したことだが、よく聞く言葉に「しない善よりする偽善」というのがある。
多くの人が納得している言葉のようだが、私はこれには反対の気持ちを持っている。偽善という言葉を「それは善の偽物であり、実態は善ではない」と捉えているからだ。偽善をおこなうくらいなら、善の心を持ったまま何もしないでいたほうが良い結果をもたらすと思っている。

もちろんその「する偽善」という言葉の多くが、「心のこもらない行動」という意味で使われていることは知っている。実際に見える形での結果を出すことが当事者のためなのだから、しない者よりもする者が評価されるのは当然だ。
だがそれは目先の目的を達することにはなっても、長い目で見てより良い世界を創り出すことにはならない。100年200年先の未来に、より多くのマザーテレサを創り出すことにはならない。
人類に本当に必要なのは偽善の心で行動することではなく、善の心に揺り動かされ行動すること。心を重視せず、行動だけでそれを良しとする「しない善よりする偽善」には、ある種の危機感さえ感じてしまう。

しかし「しない善」も、自分ひとりで完結してしまっては何も生み出さない。いくら善の心を持っていても意味がない。ではどうするのか?・・・伝えれば良い。親から子へと、新しい世代へと。
人の心はそう簡単に変わりはしない。遥か100年200年先を見据えて、大人から子供へと、さらに次の世代へと「人に尽くす価値」を伝授し、それに喜びを見いだす子を育てていけば、未来は必ず良い方向に向かうはず。

例えるならこう。偽物でもいいから宝石(に見えるもの)を持っていたいと思う者が増えれば、本物の宝石を持つ者は少なくなる。しかし、偽物を持つくらいなら本物への憧れを心に持てば良いと思う者が増えれば、偽物は増えず、本物の宝石はより価値を高める。
善と偽善の関係もこれと同じ。
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by rukachas | 2008-03-26 21:27 | 言葉の話 | Comments(0)
人の姿にときめいて・・・
ヌードかつて日本のテレビ界にはお色気番組と呼ばれる定番ジャンルがありました。しかし10年ほど前あたりからでしょうか、低俗だとか子供に悪影響(深夜放送なのに?)などの理由で規制され、次々と消滅してしまいました。
衛星放送やケーブルTVなどの成人向けチャンネルでは盛り上がっているようですが、昔のように地上波で見れるお色気番組はすっかり影を潜めました。
個人的には、テレ東の「ギルガメッシュないと」の終焉がお色気番組の終焉であったように思います。

何故こんな話をしたのかというと、今の子供たちは「性」よりも先に「性行為」を知り、「トキメキ」よりも先に「興奮」を得ることが多いように感じるからです。
未婚の十代の妊娠率が増えているとか、ワイセツ事件を起こす未成年も多いとか、出会い系サイトでは小学生から大人を誘うケースもある、という話を聞くと、子供に悪影響があるはずのお色気番組を一掃したのに未成年の性モラルは低下の一途じゃないか・・・とさえ思ってしまうのです。

しかしそれもそのはず。昭和のテレビでは当たり前だった軽いお色気さえも流さなくなった現代には、代わりにゲームやマンガ、ネットなどのコンテンツに、テレビ放送よりも過激な性描写が溢れているからです。
「それは18禁だから子供には関係ないじゃん」と思うなかれ。エロマンガは子供たちにも読まれており、ネットの18禁サイトにアクセスしたことのある児童も今や半数近くに上っています。
問題なのは、そんなアダルトマンガ、アダルトゲーム、アダルトサイトのほとんどが「性交または性行為」を扱った内容であるということ。

人に対しての思いやりや慈悲というものは、相手を愛しく思うことが前提であり、それはもともとは人間という生き物への好意から生まれるものです。
人間の裸に興味を持ち始める頃(個人差はありますが大体10歳くらい)に美しい裸体を見ることは、人間の尊厳を理解したり、人を敬う心を成長させます。その昔テレビの番組で流れていたヌードモデルの姿などは、ポルノチックな表現をしていない限りは、まさにうってつけの教材だったわけです。

ところが今はどうでしょう。人体そのものがワイセツだと言わんばかりに、ヌードアートさえも18禁にされる世の中。
子供たちは人体の美しさに触れる機会もないまま、小学校4,5年生の授業でいきなり「性行為」の存在を知らされます。「裸」と「性」と「生殖行為」をひとまとめにして意識させられます。
その後、アダルト番組やアダルトサイトなどを興味本位で見たとしても、そこにあるのも「性行為」の描写ばかり。当然のごとく性行為への興味と共に、異性のカラダを性欲の矛先として捉えてしまい、そうして育った結果が、先ほど言った妊娠率や性犯罪の増加へと繋がっていると思うのです。

異論反論あるでしょうが、私はポルノなど、大人向けの性情報は子供に悪影響があると思っていますが、ヌードという視覚情報をすべて遮断することも悪影響だと思っています。
どんな悪影響かは上で述べたとおりですが、大人向けの性を知る前に、人間の姿にときめくことが必要だと思うのです。

あまりハッキリとは憶えていないので正確ではないかもしれませんが、今から20年以上前に見たビデオ映像の話です。
私が行き付けのビデオレンタル店に立ち寄ったとき、アダルトビデオコーナーの棚の下のほうに置いてある1本のビデオテープが目に留まりました。
店員が書いたと思われる「中学生から見れます」というメモ書きが貼ってあったからです。

手に取ってパッケージを見ると、そこには外国の美人モデルがビキニ姿でポーズをとっている写真が載っていました。どうやら数人のグラビアモデルを撮影したキレイなビデオクリップ集のようです。13歳以上推奨と書いてあったのか13歳未満観覧禁止と書いてあったのかは憶えていませんが、とにかくパッケージにもそれらしいことが書いてありました。
「なんだ、中学生も見れるならアダルトコーナーに置くなよ!」と思いましたが、どんなものだろうと気になったので借りてみました。

家に帰ってから見てみると、内容はいたってシンプル。とても美人でスタイルの良い、水着姿の外国人女性が、ある者はガレージで、ある者はプールサイドで、ある者はスポットライトを浴びたステージでゆっくりとカラダを動かしているだけの映像でした。1人10分ほどの映像で、それが4人分続けて流れる45分ほどの作品でした。

これだけなら日本のアイドルのイメージビデオと変わりませんが、私が感心したのは、モデルたちが途中で水着を脱ぎ、全裸になるということ。そして全裸でありながら、映像がまったくの無修正(モザイクなし)であるということ。
つまり簡単に言えば、水着モデルのストリップショーということになりますね。
しかし日本人がイメージするストリップとは違い、たとえばお尻を突き出したり股を開いたりなどの性的なポーズはまったくなく、ただ音楽に合わせて歩いたり横になったり、クルリとターンしたりとその程度。
西洋女性のカラダの線の美しさが突出して表現されている、まさに人体鑑賞と呼ぶにふさわしい映像でした。

この当時の日本は陰毛の露出が違法でしたが、それを意識して作ったのか、それとも西洋絵画をイメージしたからなのか、このビデオに出演している女性はみな陰毛を処理していました。
女性は男性と違い脚を閉じていれば性器が見えることもありませんので、陰毛も性器も映っていないということでモザイクが必要なしとなったのでしょう。
さらに一般のアダルトビデオと違い、性行為や性的なシーンが一切無いことも制限年齢が下がった理由だと思います。実際、美術館のオブジェを眺めるように落ち着いて鑑賞できる作品でした。

しかしもしこのビデオが今発売されたら、間違いなくアダルトビデオ扱いでしょうね。ヌードというだけで大人の性娯楽作品と見られてしまうでしょう。
現代は中学生どころか、高校生にさえ「ワイセツではないヌード」を知らずに育った子が多いように感じます。つまり端的に言えば、それだけ性欲処理を目的としたエロばかりが巷にあふれているということ。

初めから大人のみを対象とした性娯楽(大人を性的に興奮させることを目的として作られたもの、いわゆるポルノ)は、子供たちに見せるべきではありません。
しかしテレビにしてもネットにしても、裸というものがあまりにもポルノ扱いされ過ぎてはいませんか?
たとえアート作品であっても子供に悪影響、たとえ裸祭りのポスターであっても悪影響、裸に見えるボディスーツも悪影響・・・と、そんなことをしてきた結果、多くの子供たちに「人のカラダはイヤラシイもの」と認識させてしまいました。

ヌードをすべてひっくるめて「裸はけしからん!子供に悪影響だ!」と騒ぐ人がいる家庭と、親子でワイセツさのないヌードを見て、人体美について語り合える家庭と、どちらが「人間愛」を育めるか、考えるまでもありませんね。
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by rukachas | 2008-03-01 00:15 | 子供の話 | Comments(0)
サンタクロースに夢を見る
サンタクロース今年もすでに半月が過ぎてしまったが、サイト本編の更新に力を入れていたらブログの更新がすっかりおろそかになってしまった。日記じゃないから無理に書く必要はないんだけどね。(^^;)
さて、今回は甥っ子に聞かせたサンタクロースの話でも書いてみようかな。

このあいだの正月休み、私は小学5年生の甥っ子4号くんに「クリスマスは何を買ってもらった?」などと訊きながら会話をしていた。4号くんはたしかDSがどうとか言っていたが、私はそのとき横にいた2年生の甥っ子5号くんにも、ついうっかり「◯◯くんはお父さんとお母さんに、レゴ買ってもらったんだっけ?」と訊いてしまったのだ。
どうしてこれが「ついうっかり訊いてしまった」なのか?それは5号くんの返事でわかる。

「うん、レゴとねぇ・・・あっ、ちょっとまってよ!お父さんとお母さんじゃないよっ、サンタさんにもらったんだよっ!」
「あ、そうだったね、ゴメンゴメ〜ン」(^o^;)
そう、5号くんはサンタクロースの存在を信じている、たいへん夢のある小学2年生なのだ。
ただ小学生になってからは友達とそんな話をすることもあるだろうし、周りの大人の会話を聞いたり、テレビからの情報もあり、最近はその確信も少しずつ揺らいでいるようだ。

真実を知るのは大切。しかしだからといって、存在を信じている小さな子供に「サンタクロースなんていないよ」と言うのはあまりに無情だ。
その日の夜(次の日の夜だったかな?)、私は川の字になって寝た布団の中で、子供たちにこんなお話を聞かせた。

『サンタクロースはいるのか?いないのか?と言えば、答えは「いる」。ただしこの世に一人だけね。たしかノルウェーだったかなぁフィンランドだったかなぁ、そこに「ニコラウス」って名前のおじいちゃんがいてね、その人が本物のサンタクロース。
「セント」っていう言葉があって、日本語だと聖なる人っていう意味で、つまり〜とても善い人ってことなんだけど、その人はみんなに「セント・ニコラウス」って呼ばれていて、それがいつのまにかセントクラウス...シンタクラース...サンタクロースって変わっていって、世界中の人が「サンタクロース」って呼ぶようになったんだよ。
でもサンタクロースは自分の国の子供たちにプレゼントを配るだけで精一杯で、とても世界中の子供たちに配るなんてできない。そこで、サンタクロースの代わりをしてくれる人たちが世界中にいるというわけだ。名前はイチタクロース、ニタクロース、ヨンタクロース・・・ってこれはウソだけど(5号くん、ここで少し笑う)、サンタクロースと同じ姿をした人たちが、本物のサンタさんの代わりに、自分の国の子供たちにプレゼントを配ってまわるんだよ。
でもその人たちをただのジイサンだなんて思っちゃいけないよ。この人たちはサンタさんと同じ能力を持ってるんだ。どんな能力かというと、子供のいる家の前までくると、その家の子がちゃんと眠っているかどうかがわかる能力なんだよ。
眠っていたら、お父さんお母さんに言って部屋に入らせてもらい、その子の枕元にプレゼントを置いていく。もしその家の子が眠らないで起きていたら、お父さんとお母さんにこっそりプレゼントを渡して帰ってしまうんだ』

「なんで起きてちゃだめなの?」ここで甥は私にこう訊いた。
『子供たちがもしサンタさんを見たらどうなる?トナカイの乗り物で来るんだよ。中には目が覚めて朝まで眠れなくなっちゃう子もいるだろうし、もしかしたらサンタさんを追いかけて外に出てしまう子もいるかもしれないよね?
そうなったら危ないし、転んでケガをするかもしれないし、寒くて風邪をひいちゃうかもしれない。だいいち子供たちがついてきたら、朝までに配り終われないかもしれないじゃん。だからサンタさんは、子供たちに見られないようにしているんだよ。
◯◯くんの友達に「プレゼントはお父さんとお母さんが置いてるんだよ。ボク見てたもん」て言う子がいたら、それはつまり、その子が眠らないでいたからサンタさんが入ってこれなかったってことなんだよ』
「へぇ・・・」(信じたような疑ってるような曖昧な返事)

ああこんな設定、どうせすぐに作り話だとばれるだろう。名前の由来は本当のことだが、それ以外は単にサンタを見たことがないことへの言い訳に過ぎない。
だが5号くんがいつか自分から、サンタクロースがフィクションだと思い始めるまでは、私は真実を言わないでおくつもりだ。それは夢を壊すからとかそういうことではなく、何が真実で何がフィクションなのかの見極めは、子供たち自身がするべきことだからだ。

サンタクロースよりも親がプレゼントを置いてくれていたほうが嬉しいと感じる歳になれば、子供は自ずと夢をそちら側にシフトさせるだろう。
セントお父さん、セントお母さん、サンタに代わって子供に夢を与えよう。
私もセント伯父さんにならんといかんなぁ〜。(^^;)
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by rukachas | 2008-01-18 21:56 | 子供の話 | Comments(0)
ご飯をかき混ぜていて思ったこと
ごはん夜中、小腹がすいたので台所へ。茶碗にご飯をよそい、冷蔵庫から卵をひとつ取り出す。割ってご飯にかけ、味の素と醤油をかけて混ぜる。いわゆるタマゴぶっかけごはん。
茶碗のフチにそって箸を滑らせながら、周りのご飯を中央に寄せる。うまく混ざっていない白い部分に、黄身と白身を被せるように寄せる。クルックルッと輪を描くように、サクッサクッと掘り起こすように、二本の箸でまんべんなく混ぜる。

薄暗い台所に立ってこんなことをしていると、ふと子供の頃を思い出した。
私は小学校低学年の頃、この「箸でご飯を混ぜる」という行為がとんでもなく下手だった。食事時、卵も納豆もふりかけも自分で混ぜてみたいのに、やると決まって下にボロボロとこぼれてしまう。混ぜ終わったご飯の量は半分、残り半分はひざの上・・・。
だからオフクロは横から手を伸ばし、私から茶碗を取り上げてさっさと混ぜてしまう。キレイに混ぜられたご飯をハイッと手渡されてもちっとも嬉しくない。自分の力でキレイにこぼさず混ぜたいからだ。だから半ばカンシャクを起こしながら、ベソをかきながら混ぜていた。

しかし頑張ってはみるものの、どうしてもひざの上にボロボロとこぼれてしまう。親父はそれを見て「何やってんだっ!」と怒鳴りだす。私は「なんでこぼれちゃうのっ!」「どうやるのっ!」と顔をクシャクシャにしながら訴える。だが親父は教えてはくれない。子供に解るように上手く教えることができないからだ。いやそれ以前に面倒くさいからだ。

上手くできない悔しさ、方法が見つからない悲しさ。幼い子供にとっては気がおかしくなりそうなくらい辛いこと。大人はそれをわかってやらなければならない。
当時の私が欲したのは、代わりにやってくれるオフクロのような行為ではない。どうすれば上手くできるのか、ヒントやコツを優しく教えてくれる人だ。こうだよと知識を与えてくれる人だ。

だがそんな人は私の身近にはいなかった。何でもやってあげる人は子供のためにならないが、何でも教えてくれる人は、子供の良き指導者となる。知識は新たな知識への道しるべとなるからだ。
今の私が、甥や姪のために尽くし、時間を惜しまず相手をしているのは、あの頃の私が、そんなオジさんを欲していたからかもしれない。
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by rukachas | 2007-08-30 06:12 | 子供の話 | Comments(0)