子供大好きRUKAの雑記帳
by RUKA
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タグ:子育て ( 48 ) タグの人気記事
こんな子はこんな大人に・・・
育ち・親に反抗せず育った子は、他人に対して反抗的な大人になる。
・厳しいしつけの中で育った子は、羽目を外しやすい大人になる。
・お菓子を十分に与えられずに育った子は、ストレスを解消できない大人になる。
・子供らしさを抑圧されて育った子は、子供っぽい思考の大人になる。
・性に関して厳格な家で育った子は、攻撃的な性癖の大人になる。
・欲しい物をすぐに買ってもらえる環境で育った子は、友情が希薄な大人になる。
・親から虐げられて育った子は、多重人格になる。
・親の都合を押し付けられながら育った子は、鬱病になる。
・ウソが飛び交う家庭で育った子は、ひきこもりになる。
・あまり遊ばず、勉強ばかりして育った子は、バカになる。
・肌の触れ合いが足りずに育った子は、子育てが下手な大人になる。
・大人に甘えられずに育った子は、自分勝手な思考の大人になる。
・親に可愛がられずに育った子は、愛情を表現できない大人になる。
・言葉に気をつけない親に育てられた子は、本心を明かさない大人になる。
・すぐに他人のせいにする親に育てられた子は、親のせいにする大人になる。
・親の理想を当てはめれば当てはめるほど、理想からずれた大人になる。

ついでに・・・
・甘やかしはいけない。だが甘えさせることは必要。
・汚れ(けがれ)てはいけない。だが汚れ(よごれ)てみることは必要。
・見本になってはいけない。だが手本をしめすことは必要。
・教育は脅育であってはならない。共育であるべき。
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by rukachas | 2007-08-03 21:53 | 子供の話 | Comments(0)
性教育、差別のないモラルあるエロス
エロに注意?私のサイトの掲示板では、議論に幅を持たせるため子供の話題なら何でもござれと、性的な話もふざけたものでなければ無礼講としている。
その掲示板にある日「小学6年生の弟が学校でコンドームの使い方を習った」という内容の投稿があった。
小6といえば11歳か12歳。サイズも合わないであろうに、小学校でコンドームの使い方を教えることなどあるのか?と、私も半信半疑でいたのだが、その後ニュースサイトなどの記事を検索しあれこれ読んでみると、小学校でコンドームの使い方を教えているというのはどうやら事実のようだ。

ただニュース記事を読む限りでは、行き過ぎた性教育の事例として否定的に捉えているので、一部の学校あるいは教師の暴走なのかもしれない。
とはいえ、今やほとんどの小学校で4年生あたりから性教育の授業を行っているのは事実であり、これは感染症(AIDSなど)の予防や性差別(ジェンダーフリー)についての教育も含め、子供たちに必要なこととして扱われている。
小中学校の性教育がコンドーム教育(ある意味、護身術)も含めつつあるのは、必ずしも批判すべきことではないのかもしれない。

私の甥っ子も4年生の頃に初めて性教育の授業があったらしく、その授業内容を教えてくれた。
甥の学校はごくありふれた普通の授業だったようだが(どの程度が普通なのかは判断が難しいが)、話を聞いてみると、各部の名称や仕組みについて習ったはいいが、教えられることが中途半端なので余計に疑問符が増え、その後は自分で勝手にイメージを膨らませているといった感じだ。

最近の子はそんなときネットで情報を得るのだろう。私が子供の頃は学習雑誌に載っている「カラダのQ&A」的なものや、親兄弟、親戚のお兄さんに訊くことしか手段がなかったが、今の子たちは知りたいと思ったときにすぐネットで調べることができる。
しかし、そうして得る情報はとかく真実でなかったり、嘘とまでは言わなくても誇張しすぎていることがある。

その修正をするのが親であり学校であると思うのだが、では、日本の親たちは普段子供と性について真面目に語り合えているのだろうか?
おそらく勝手に想像をふくらませていく子供をよそに、親はなるべくそのての話題に触れないようにしている、という家庭がほとんどだろう。

昔「覚せい剤やめますか?人間やめますか?」という覚せい剤撲滅キャンペーンのCMがあった。だが覚せい剤の使用者はこのCMで少しは減ったのだろうか?
ドラッグでトリップできるという知識を得た者の好奇心が恐怖心(不安感)を上回ったとき、人の倫理観はいとも簡単に崩壊する。

覚せい剤に手を出す者を確実に減らすには、好奇心よりも恐怖心が上回るようにしなければならない。たとえグロテスクであろうとショッキングであろうと、ドラッグによる害をありのままに人々に伝える必要がある。
これはタバコを例にとるとわかりやすい。世界各国ですでに行っている、グロテスクな患部写真を印刷したタバコのパッケージ。服用しようと自ら手にする物によって、それを行えばどうなるのか教育させられるのだから、それは頭ごなしに禁止されるよりも効果的だ。

麻薬や覚せい剤の場合は法律で使用も所持も禁じられているが、それでも使用者は後を絶たない。脱法ドラッグという抜け道もある。
いっそのこと合法化して、その代わり徹底的に害を教え込んで「それでもやるなら自己責任で」としたほうが使用者が減るのではないか?とさえ思ってしまう。

性教育もこれに似てはいないだろうか?
今の小中学校での性教育は、身体に関する知識だけを与え、子供の好奇心をいたずらに煽っているだけのような気がする。
たしかに現場の先生方の努力には頭が下がるが、はたして事を起こした場合の恐怖心(不安感)が好奇心を上回るほどの知識を子供たちに与えているのかというと、いささか疑問が残る。

日本は性教育に関しては昔から「寝た子を起こすな」という考えが常にあった。しかしこの情報化社会でいつまでも寝ているわけはない。
ならば幼いうちに起こして正しい知識を身に付けさせよう、というのが今の性教育なのだが、性に関する取っ掛かりの知識だけを与え、それ以外は子供には教えられませんとタブー視する風潮がある限り、子供たちは性を後ろめたいものと捉え続けるだろう。

25年くらい前になるが、私が買っていた写真雑誌にあるポルノ男優についての記事が載っていた。男優自ら書いたエッセイだったのか、男優を取材した記事だったのかはよく覚えていない。
おそらくAVではなく日活あたりの成人映画の男優だと思うが、その男優は撮影現場に自分の子供をよく同伴させていたらしい。つまりお父さんの仕事場見学というわけだ。

誌面には大きな見開き写真も載っていて、そこには裸で絡み合う男女、周りには撮影スタッフと監督、そしてそれを楽しそうに見つめる2人の幼い兄弟が写っていた。ひとりは幼稚園くらいで、もうひとりは小学校2年生くらい。どちらもこの男優の子だそうだ。
プライバシー保護のため男の子の目は黒いラインで隠してあったが、口元はおどけているようにも見え、現場は楽しい雰囲気であると感じ取れた。

ポルノ映画の男優もAV女優も、性風俗店の従業員もストリップの踊り子も、皆それぞれに立派な職業であり、その道で極めれば人にも誇れる。そして子供も、そんな親の職業になんら引け目を感じることはない。
「お前の親、エロい仕事してんだろ~」と友達にからかわれる子もいるだろう。だがそんな「性的なこと イコール 後ろめたいこと」という偏見、差別心を取り除くのは親や学校の役目だ。

ところが現実はそう上手くはいかない。先日ネットで読んだ記事だが、ある小学校の性教育の授業で、担任の教師が性風俗で働く人たちについて話をしたところ、生徒の父母たちから抗議が来てしまったらしい。
親たちが性風俗に対してこのような偏見を持っているのでは、学校での性教育が「生殖教育」どまりになるのもうなずける。
性器の仕組みや機能、排泄以外の使い方までしっかり教えておいて、「でも子供はやっちゃいけませんよ」と言うだけでは、子供たちの好奇心に対してあまりに無責任。タバコやドラッグの例と同じく、好奇心を上回り歯止めとなる「真実の知識」を与える責任が、親や学校にはあるのだから。

十代の未婚女性の妊娠率や堕胎率が高まっていると聞くが、性の乱れの原因が小中学校での性教育にあるとすれば本末転倒だ。
性に後ろめたさがあるから親の目に届かないようにする。だから対処も遅れる。モラルを教えただけで歯止めがかかるほど子供たちは天使ではない。

学校での性教育の役目とは、子供たちに正しい性意識を持たせることのはず。
ならば偏見を持ちやすいこと、誤解しやすいことをあえて採り上げ、ちまたに溢れる性に関して良しも悪しも包み隠さず教えていくことが得策である。
親から抗議が来そうな、子供には無縁と思われてきた性情報の中に、子供たちの性の乱れを抑える特効薬が見つかるかもしれない。
あとはこのようなやり方に偏見を持つ、多くの大人たちの意識をどうするかだ。
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by rukachas | 2007-07-21 05:13 | 子供の話 | Comments(3)
子宝
赤ちゃん子を得ることを「子宝を授かる」と言うくらい、昔から子供は宝物のように大切だとされている。
だがこの大切だという感覚にも、大きく分けて二通りのパターンがある。

ひとつは「財産」としての大切さ。いつか、親である自分のためになってくれるであろうという、つまり将来のための備え、蓄えという意味での宝物。この場合は熟成されるまで長い目で見る必要がある。

もうひとつは「作品」としての大切さ。子供そのものに価値を感じる、愛着を感じるという意味での宝物。庭先の花を大切に育てたり、自分の描いた絵を大切にしていたり、そういうこと。
たとえば綺麗な富士山を見て、この景観を大切にしたいと思うのと同じ。

私は子供がいないのでもちろん前者の感覚は無い。子供が好きなのも甥や姪を可愛がっているのも、後者の感覚が強いからに他ならない。
秘められた能力、あるいは能力を発揮するであろう将来性、精神的な純真さ(良い子という意味ではない)、身体的な新鮮さなど、多くにおいて子供は大人以上の価値を秘めている。
「財産」という意味では大人以上の宝とは言えないが、「作品」という意味では子供はこの世で最高の宝と言えるだろう。

だが、宝物は得てして管理が面倒だ。突然現れたこの宝物に手を焼いて、捨てたり壊したりする者。他人の宝物を拝借し、御用になる者。たくさんの宝物の管理を任され、気が休まらない先生方。宝物を磨いているつもりで、じつは曇らせていることに気付かない大人たち。
そして宝物同士で傷つけ、傷つけられ、挙句の果てに自らをゴミ溜めに投棄する宝物たち・・・。

子供というものは大人のミニチュアでもなければ、大人の未熟なものでもない。虫や蛙が変態するように、子供は子供として完結しており、大人とは違う対応が求められる。
今まで大人が、子供の心や身体を「大人への成長過程」とみなし、未来の財産としての価値しか見出してこなかったツケが、宝を曇らせる者の出現や、宝自体の質の低下として表れてきているのではないだろうか。

あたかも居間に飾った絵画より、財産として倉庫にしまいこんだ絵画のほうが、より狙われやすく、傷みやすいように。
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by rukachas | 2006-12-23 20:50 | 子供の話 | Comments(0)
仕事はツライ
元気にお仕事数年前のことだが、うちに泊まりに来ていた幼稚園児の甥が、ジイちゃんとバアちゃんに向かってこんなことを言ったことがあった。
「ジイちゃんとバアちゃんはどうして働かないの?おじちゃんばかり働いてて可哀想でしょ!」
私はその場にはいなかったが、あとからバアちゃん(私の母)から聞いた話だ。

小さな子供に定年がどうとか年取ってるからどうとか言っても納得するか分からないが(実際に年を取っても働いている人はいるからね)、それよりも私が意外だなと思ったのは、働いていることを「可哀想」だと言ったこと。
私は可哀想なほどコキ使われてはいないし、仕事の愚痴を言ったこともない。だが甥っ子のこの気遣いは嬉しかった。

親というものは「おまえを一生懸命育てているんだよ」という愛情表現のため、「頑張って働いている」という態度をつい出してしまう。それは子供から見ても有難いことだし、偉いなぁと尊敬できることでもある。
しかし同時に「働くことはツライことなんだ」という印象を持ってしまうことも、あるかもしれない。
私もつい甥っ子の前で、疲れを態度に出してしまうことがある。突然「今日そっちに行っていい?」と電話をかけてきた子に、疲れているからと断ったこともある。このへんも哀れみの原因か。

甥たちには時々「キミたちのお父さんは、キミたちを育てるために一生懸命働いているんだよ」と言い聞かせているのだが、一生懸命働くのが美徳だった時代とは違い、尊敬するべきところで哀れみになってしまっても困る。
かといって「働くのは楽しいことだ」と言うのも、帰りが遅くなる父親に自分勝手さを感じてしまうかもしれないし、う~ん難しいところだね。

仕事はツライよ~。でもお金が入るからね。お金がたくさん必要な人はたくさん働いて、それほど必要じゃない人はそれなりに働いていれば、それが自然な状態。辛さと報酬を秤にかけてニコリとできれば、それは可哀想な人ではないんじゃないかなぁ。
ボランティアの場合は報酬とは人々の感謝の念だったりするわけだが、それもたくさん得られれば幸せなことだ。

一番可哀想なのは、仕事があるのに金がなく、希望もなく、笑顔さえもなくした人たちかもね。
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by rukachas | 2006-12-06 01:04 | 子供の話 | Comments(0)
どこか身構えて不協和音
サンタ昨日の日曜日、2人の甥っ子と、甥の両親(つまり私の妹と義理の弟)とともに、私の家の近くを散歩し、児童公園に立ち寄った。
遊具が数個置いてあるだけの小さな児童公園では、近所の子供たちが元気に遊んでいた。おじいちゃんおばあちゃんらと来ている子もいる。
甥たちも所狭しと駆け回り、私と妹夫婦もそれを眺めていた。

すると突然、見ず知らずの4、5歳の女の子が義理の弟に向かって「お兄さ~ん、上に乗りた~い、持ち上げて~」と呼びかけた。
どうやら、遊具の上に上がりたいので、ダッコして持ち上げて欲しいということらしい。その子は望みどおり上げてもらうと、満足そうに遊んでいた。

ところがその子は、一度降りるとまた同じようにダッコの注文をしてきて、キリがなくなってしまった。義理の弟は2度ほどやってあげたが、その子は3度目に反応が無いとみるや、今度は私に声をかけてきた。
さすがにお兄さんとは言われなかったが、私もその子を抱えてヨイショと持ち上げ、遊具の上に登らせてあげた。

その後この子の動きを見ていると、結構活発な子のようで、実際は本当に自分で上がれなかったというよりも、たんに大人にダッコしてもらいたかっただけのような気がする。
この馴れ馴れしさと図々しさこそが子供の特権だが、それに合わせて大人も馴れ馴れしくして良いのは、たぶん'90年代までだったろう。今は大人のほうから他人の子に馴れ馴れしくするのが危険だということは、誰もが知っていることだ。

昔の私ならこの子としばらく話をしたり一緒に遊んだりもしたろうが、この時は「気をつけてね~」とひとこと言っただけ。しかも内心は「たのむから落ちないでくれよ~」と気が気ではなかった。
というのも、もしこの子がそこから落ちた場合、乗り上げさせた私の責任になるからだ。これは子供から頼まれた事であっても、たとえ怪我をしなかったとしても、世の中にはどんな親がいるか分からない、という意味での不安感である。

ちょっと前のニュースで、ある男性が2歳の子から目を離して歩いていた母親に「子供から目を離すな」という意味で注意をしたら、この母親に「誘拐するぞと脅された」と警察に証言され、逮捕されたという話題があった。
結局この男性は、女性の証言が曖昧だということで無罪になったが、注意されて逆切れする人も多いこの世の中、「誘拐されるぞ」が「誘拐するぞ」に脳内変換されてしまうことも、珍しくないのかもしれない。
以前マイケルジャクソンについての記事でも書いたことだが、大人が子供のことで争い、子供だけが真実を知っているというパターン。

子供の天真爛漫なコミュニケーションの波動にエコーを返してあげて、さらにそこに両親の波動も加わり、心地よい和音に包まれる・・・という光景は決して理想論ではなく、ほんの20年ほど前まではそこら中にあった光景なんだけどね。
現代はサンタクロースでさえも、なんとなく距離を置いた接し方をしなければいけない時代、ということか。
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by rukachas | 2006-11-06 22:25 | 子供の話 | Comments(0)
善心あるのみ
善心もし、まるで体脂肪率を量る機械のように、自分の善心率、悪心率がわかる機械があったとしたら、あなたははたしてどのような結果が出るだろう?9:1でほぼ善人だろうか。4:6でやや悪人だろうか。

ほとんどの人はこのような機械を使うまでもなく、自分が善であるか悪であるかを知っているし、自らの言動(言葉と行動)が善行であるか悪行であるかも承知の上で、日々の生活を送っている。
「類は友を呼ぶ」とか「その者を知りたければその友を見よ」などと言われているが、似たもの同士でコミュニティが形成されやすいのも、人間の性格や人となりが、普段の言動に表れていることの表れだろう。

相手が善人であるか悪人であるかは、付き合ってみればわかる。しかしネットによるコミュニケーションでは、相手の言葉のみ、しかも書かれた文章から判断するしかない。
先日とあるネットのコミュニティにて、ある人が道徳的な注意を受けたことを逆恨みし、注意した人を偽善者呼ばわりしている文章を見かけた。(私は当事者ではなく、ただ見かけて読んだだけ)

偽善とはニセモノの善、つまり善人ではないということだが、相手が善人であるか悪人であるかは、二言三言、言葉を交わしただけでわかるものではない。
なのに何故この人は、注意した人をすぐさま「偽善者」だと決めつけたのだろう?
それは単純に「オレ様に文句があるヤツは気に食わない」と、偽善者という悪口を言ったに過ぎないのだろうか?(バカじゃない者にバカ!と言うように)
それとも本当に「道徳的なことを言うヤツは、善人ぶってるけどじつは悪人なんだ」と思い込んでいるのだろうか?

このようなやり取りはネットではよく見かける。悪をあらわにした人に「この偽悪者め!」とは言わないのに、善をあらわにした人には「この偽善者め!」と言う。
悪態をついた人も悪に見え、善を説く人も偽善に見えるのなら、その人は本当に哀れな人だ。自分も含め周りに善人がいないため、善が絵空事のように思えるのだろう。

たしかに偽善は多い。人を陥れる信仰宗教や、ボランティアを装った詐欺もある。テレビのチャリティー番組も金を集める有意義な企画ではあるが、制作者、出演者の中には見返りを期待してやっている者もいるかもしれない。テレビドラマでは、恋人への愛情は描いても本当の善心は描ききれていない。
アニメやTVゲームの中では善心はお馴染みのテーマだが、それだけでは本当に絵空事だ。

「善人なんてお話の中だけ。現実の人間は身勝手で、利己主義で・・・」それは半分は事実だが、善か悪かを人の行動から判断しようとするから迷いが生じる。
この人は善人この人は悪人と、はなから決め付けられるものではない。心の中に善心と悪心のどちらが多いかということと、それがどのように他人に作用しているかで判断するべき。
たしかに道徳観はどの人でもどの国でも同じというわけではないが、少なくとも道徳を唱えた者をすぐさま偽善者と称すのは、自らも善心なき者と称しているようなものだ。

本来ならこの世で最高の善心は親子の愛情であるはずだが、最近はそうではないケースが増えてきている。善が絵空事に思えるとすれば、やはり幼少期からズレが始まっているのだろう。
現実の付き合いでもネットの掲示板でも、一生懸命「偽悪」を演じている若者たちは、もしかしたら犠牲者なのかもしれない。
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by rukachas | 2006-07-28 22:28 | Net&Webの話 | Comments(0)
行き過ぎたフィルタリングは正しい判断を鈍らせる
バイオハザード4月12日に書いた「大人と子供で共に感じよう」と題した記事では、「大人と子供は物事に共感することで意思の疎通が計れるようになる。そのうえで大人は子供に対して必要な情報をしっかりと伝えていこう」という話をしました。
何故このような話をしたのかというと、最近パソコンショップのソフトウェアの広告で、子供への情報フィルタリングソフトをよく見かけるようになったからです。子供が使うパソコンにインストールしておくことで、子供が見るサイトを制限できるソフトです。

多くのフィルタリングソフトには予めデータベースにいくつかの有害サイトが登録されていますが、子供自らアクセスしようとしたサイトがあからさまな有害サイトではない場合(そのケースのほうが多いと思いますが)、見れるか見れないかはページに含まれるキーワードや、親によるセッティング次第といえるでしょう。

となると、子供への悪い影響を考えての選り分けだけでなく、親の主観や思想によって選り分けてしまう可能性も出てきます。子供にジャイアンツのサイトを見せたくないと思うタイガースファンの親もいるかもしれませんし、将来子供に国家公務員になってほしい親は、漫画家やアニメーターになることを推奨するページを見せたくないと思うかもしれません。
つまり、親による「子供に見せたい見せたくない」の選り分けは、必ずしも子供に「悪影響を及ぼす及ぼさない」の選り分けとは限らないということです。

とはいえ、フィルタリングソフトを導入することで少なくとも暴力的なサイトやポルノサイト、出会い系サイトなどに子供がアクセスすることを防げるのですから(完全ではありませんが)、親としては何もしないでいるよりは安心できますね。

しかしここが大事なのですが、インターネットはテレビと違い勝手に映し出されるものではなく、自分からアクセスして見るものです。
子供が有害サイトを見ることだけを問題視する大人が多いようですが、そもそも有害サイトを見ようと思うその子の心の内を、もっと考えてやらなければいけません。壁を作るだけでは乗り越えようとするだけです。

また、ひとくちに有害サイトといっても、暴力、犯罪、自殺、ポルノ、ヌード、セックスなどの単語が含まれているというだけで有害だとフィルタリングされてしまうサイトも少なくありません。
事実このブログも、今これらの単語を書いたために、キッズgooの検索結果からここへはアクセスできなくなったはずです。(フィルタリングされてしまうので表示されない)

ですから、ネットの影響について書かれた文章でよく見かける「暴力、ポルノ、差別など、子供に見せたくないサイト」という文章は、正しくは「暴力、ポルノ、差別などを”推奨している”、子供に見せたくないサイト」とするべきではないでしょうか。
私は暴力やポルノや差別について書かれているページをもし自分の子供が見たとしても、それが悪いことであると教えているサイトなら閲覧禁止にはしません。なぜならこの場合の「影響」は良影響であり悪影響ではないからです。

「そのサイトが文字だけなら良いが、画像が貼られていたらどうするんだ!」と思う方もいるでしょう。
私が言いたいことはまさにこの事なんですが、子供は不快と感じたものへ自ら近づくようなことはしません。近づくとしたらそれは不快ではないからです。
暴力描写にせよ犯罪誘発にせよ性情報にせよ、なぜ大人たちは、子供がそれを不快と感じる幼い頃に、知ることさえも禁止するのでしょうか。

不快だと感じた記憶を有せぬまま育った子が、不快だと感じなくなる思春期を過ぎたあたりで初めてそれらの情報を得れば、好奇心から歯止めが利かなくなるのは当然です。
逆に言えば、それを不快と感じる幼い頃に、自ら見たがったり知りたがった場合こそ、そこから遠ざけるチャンスだということです。

「バイオハザード」というゲームソフトがあります。このゲームは残酷描写のため15歳以上推奨、18歳以上推奨とレーティングが設定されています。つまりショッキングなので小さな子はやらないようにと警告しているゲームなわけです。(あくまでも推奨年齢ですが)

私の部屋にはPS版のバイオハザードがあるのですが、昨年小学3年生の甥っ子がうちに来たとき、このゲームをやりたいと言い出しました。
私は「これは残酷なシーンが多いからやめたほうがいいよ、怖くて泣いちゃうよ、夜眠れなくなっちゃうよ」と言ったのですが、好奇心旺盛な甥は大丈夫だからやりたいやりたいの一点張り。

ならばとやらせてみました。見た目に異質なものは敵であるという印象を持ち、グロテスクに対しある程度の免疫が付く中高生になってからこの手のゲームを知るよりは、不快と感じる歳のうちに自分で判断してほしいと思ったからです。

ゲームが進むにつれてだんだんと画面から離れていく甥っ子。一段と怖い場面では、私にコントローラーを渡して「ここだけやって!」と逃げ腰でした。しかしゲーム性が面白いので、私が「怖いならやめたら?」と言ってもやめようとはしません。かなり楽しんでいるようです。しかし1時間ほどでセーブして終わらせました。

甥は次に来たときも、前回セーブしたところから続きをプレイしていましたが、私はそのあいだ横で見ながらストーリーや状況を説明していました。(この子もいろいろと訊いてくるので)
「この人たちはもとから怪物だったわけじゃないんだよ、怖いウィルスでこうなっちゃったんだよ」「うわ、撃たれた!痛そ~!」「頭が飛んだっ!かわいそ~!」・・・と、ゾンビの哀れさを実況。

甥はその次に来たときからピタリとこのゲームをしなくなりました。「続きやらないの?」と訊いても「もうやらない」と言うだけ。怖いだけでなく不快さも感じてきたんでしょうね。(私の説明が不快だった可能性もありますが・・・)

怖さというのは、そこから離れたあとにジワリジワリとやってくるものですが、罪悪感や不快感もまた然りで、はじめは感じなくてもあとからジワリと感じてくれれば、それが歯止めという良影響になります。
たとえ中学生以上になってこの手のゲームを好んでするようになったとしても、残虐を不快と感じた記憶がある子と無い子では、その後のモラル意識にも差が出てくるように思います。

罪悪感や不快感を感じぬまま過激なコンテンツに触れ、そのインパクトが快感になってしまった子が、歯止めが利かず実際の動物虐待を起こし、その後人間への危害も・・・というケースも、少ないかもしれませんが無かったわけではありません。
もちろん私の甥がそういう子だとは思っていませんが、悪影響ばかりを考えてなんでもかんでも隠す(フィルタリングする)のは、如何なものかと思うのです。

親が説明や道案内をすることを前提としたうえで、子供が自ら「感じて」善し悪しを「判断する」、そんな機会を与えてあげることも大切ではないでしょうか。
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by rukachas | 2006-04-16 23:49 | 子供の話 | Comments(0)
大人と子供で共に感じよう
心の共有最近人と話していると「そそ、そ、それでさぁ」という感じでどもったり、「え~、あの~・・・」と次の言葉がすぐに出てこなかったりと、まるで歯車の油が切れたかのような喋りになるときがある。
もしかして脳の老化現象?ボケの始まり?この歳で?う~んヤバイヨ~!(´Д`;)

ところが、私は子供と話をするときは相変わらず饒舌。言葉が湯水のようにポンポンと湧いてくる。私と子供とのあいだで行き交う「言葉のボール」の弾力性は、一向に衰える気配がない。
それじゃあまるでルイス・キャロルのよう。うん、そうかもしれない。キャロルは私が尊敬する偉人のひとりだし、子供好きという共通点もある。(キャロルのは恋で、私のは愛だが)

親、教師、保育士など、子供と会話をする機会を持つ人はたくさんいるが、そのときキャロルのように子供の気持ちをしっかりと汲んでやれる大人は、はたしてどれほどいるのだろう?さほど多くはないような気がする。
とかく大人は子供に真実をすべては話さず、子供は大人に本心をなかなか明かさないものだ。

それは何故か?大人は心のどこかで計らずとも大人主導型の意識があり、子供の意思テリトリーの外側から管理しようとするからだ。
かたや子供は、大人は自分よりも経験があるのだということを意識するがゆえに、見透かされないよう(バカにされないよう)身構え、自らの気持ちをフィルターに通すことがある。
いつの時代も、大人は「今どきの子供は」と苦言を呈し、子供たちは「大人はわかってくれない」と距離を置く。この距離と不確かな意思の疎通の中で、大人は子供を守ろうとし、子供は大人に依存しようとする。はたしてこれでうまくいくのだろうか?

とあるテレビ番組で、続発する子供を狙った犯罪についてたくさんの大人たちがディスカッションしていた。不審者から子供を守るにはどうしたら良いのか?子供が犠牲となる事件に対して、親や教師はどう対処していけば良いのか?などと、著名人らも交えて侃々諤々の議論を闘わせていた。

私はこのての番組を見ていていつも思うのだが、大人が子供について語り合う場に、なぜ主役であるはずの子供たちがいないのだろう?これはネットの掲示板でも感じることだ。
たしかに子供を守るのは大人の役目であり、子供になるべく不安な思いをさせないためにも大人がバックグラウンドで動く必要はある。しかしこのような重要な事柄は、子供と共にディスカッションをし、互いにどのような意識でいるのかを把握し合わなければ高いセキュリティは望めない。

親は子に「怪しい人に気をつけなさい」と言う。学校では「不審者に注意」と教える。しかし子供はその「怪しい人」「不審者」について、具体的にどういう人なのかを何も知らない。知らないから、大人に対して常に警戒心を持ってしまう。いや警戒心というよりもむしろ不信感といった感じか。
新聞の投書欄にも「近くにいた子供に道を尋ねたら、逃げていってしまった」というお年寄りからの投書もあった。
これは子供にとっては完璧な防御かもしれないが、親しい大人以外とのコミュニケーションができぬまま育つこの子の未来に、私は一抹の不安を感じる。

子供たちにとって不審者という言葉はモンスターと同義語であり、漠然としたイメージしか持っていない。これでは意味がない。己の身を守るためにはまず敵を知ること。これは防御の鉄則だ。
子供には、子供を狙う人とはいったいどういう人なのか、何をしようとしているのかを正確に教える必要がある。それは相手が変質者であっても、精神が異常な暴力的な人であっても同じこと。
子供にそれを意識させぬまま外側から守ってやれるほど、世間の大人はスーパーマンではない。子供自身が敵の情報を正確に知ることこそ、いざというときの防御にもなり、また自ら危険を招かないことにもつながる。

子供への情報をフィルタリングしたり、子供の自由意志を抑制したり、子供の行動に先回りして対処するのも躾や教育のひとつではあるが、子供の意思テリトリーの外側から管理するだけでは、いったいどんな子が育つのやらと心配になってしまう。
子供たちも子供たちで、自分を誇示することを意識するがゆえに、ほぼ同世代のみで戯れ、狭い範囲のコミュニティを形成してしまう。どちらも異世代間の意志の疎通が足りないのだ。

たしかに某巨大掲示板のように、あらゆる世代の会話が入り乱れているところもあるが、それは情報の共有であり意思の疎通とは違う。実際に、相手の歳が自分よりもずっと離れていることを知ったとたん、年配者も若者もそれぞれ相手を見下げるセリフをはくことがよくある。
これでは大人が子供の気持ちを理解することも、子供が将来の自分を見据えることもままならなくなってしまう。子供のセキュリティのためにも、善き大人へと育つためにも、大切なのは異世代間での心地よい意思の疎通だ。

大人と子供が気軽に対話するのはたやすい。しかし、一切フィルターを通さない意思の疎通は難しい。
だがそれを実現するのは「共感」だ。共感するかしないかは感性の違いであり年齢の違いではない。大人による子供の管理は、この共感をベースとしておこなうべき。
ルイス・キャロルがなぜああもアリス・リデル(実在の子)の心を引き付けることができたのか。それはキャロル自身がアリスの心に共感していたからに他ならない。

(ルイス・キャロル = 童話「不思議の国のアリス」の作者)
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by rukachas | 2006-04-12 21:17 | 子供の話 | Comments(0)
♂と♀でジェンダー・フリー
男と女最近新聞などで、行き過ぎたジェンダー・フリー教育についての記事をよく見かける。小学校で高学年の男女を同じ教室で着替えさせるとか、運動会の騎馬戦を男女混合で行うとか、一部の教育現場ではまったくおかしなことになっているようだ。
男らしさ女らしさの概念を批判するジェンダー・フリー思想が広がる中で起きたことだが、もしかしたらジェンダー・フリーに対する批判的な意図も多少はあったのかもしれない。もちろん生徒の心を無視したこのような現場は、すぐに改めなくてはいけないが。

人間は男か女かどちらかであり、生物学的に明確な違いがある。
性差別は決してあってはならないことだが、これは性別によって格差(上下の差)が生じてはならないということであって、男女の違いを無視するということではない。例えれば、犬と猫どちらも可愛がりましょうということであって、犬にネコジャラシを与えたり猫に首輪を付けて散歩するということではない。
犬には犬の、猫には猫の扱い方がある。だから人間も男と女で向き不向きがあるのは当然のこと。これを差別と呼んではいけない。

しかしその向き不向きにも当然例外があり、性別による選り分けがマイナスに働く人もいる。そういう個人的な能力や精神面の違いを考慮しない現場があることが問題なのであり、これはジェンダーの問題とは分けて考えるべき。

だがジェンダー・フリーを訴える団体なり個人なりが、男らしさ女らしさの概念を批判する意図はよくわかる。とくに女性の場合、作られた「らしさ」に縛られてきた歴史が長いのだから。
しかし時代とともに移り変わるこの「らしさ」。少なくとも私は現代の「女らしさ」という言葉の中に、縛りの意図は見出せない。
雄々しい女、女々しい男が大多数を占める世の中になれば、性差別を高らかに訴える声も減ってくるだろう。だがこれでは「らしさ」が逆転したに過ぎず、ジェンダー・フリーが実現できたことにはならない。そういう意味では、男らしさ女らしさに捕われない文化の出現が、不可欠なのかもしれない。

我々は男らしさ女らしさを口にする前に、はたして人間らしいのだろうか?
鳥は地を歩くよりも大空を飛んでいたほうが鳥らしい。魚は水の中で活き活きしていたほうが魚らしい。人間にもそういう「らしさ」があるはず。
これからの未来、男は男に産まれてきたことを、女は女に産まれてきたことを感謝しつつ、人間らしさについて考えていくことが理想ではないだろうか。
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by rukachas | 2006-01-16 21:39 | ニュースの話 | Comments(0)
楽しい会話は葉っぱがいっぱい
語り部べつに自慢するわけではないが、私は子供の心を捉えた話し方をするのが上手いようだ。私が子供たちと話をすると、大抵の子は私の話を食い入るように聞いてくれる。

それは甥や姪だけではなく、去年親戚の結婚式に行ったときに出会った、いとこの子供たちもそうだった。さらに思い起こせば、若い頃、撮影を通じて知り合った多くの子供たちもそうだった。みんな私の話を、楽しそうに目を輝かせながら聞き入っていた。
年少の甥っ子ふたりに至っては、うちにお泊まりしたときは、私の話を聞きながら寝るのを楽しみにしているし、中学生の甥と高校生の姪も、私と話がしたいがためにわざわざやってくることもあるくらいだ。

私は子供に話をするとき、無意識のうちに話すテンポが8割ほどに遅くなり、一音一音正確に伝えようとしていたりする。身振り手振りも大きくなっていき、まるで語り部(かたりべ)だ。
だが食い入るように聞いてくれる子が多いのは、きっとそれだけが理由ではないはず。そう思って客観的に考えてみると、2つほど理由が浮かんだ。

ひとつは私の声質。じつは私は非常に通りにくい声をしている。といっても、こもっているとか野太いとかダミ声というわけではない。多分これといって特徴の無い声だろう。
しかし距離に対する減衰率が大きい声だということは、学生の頃からわかっていた。授業中、教師に何度「聞こえねぇぞ~!」と言われたかわからない。卒業式の予行演習で、名前を呼ばれた時のハイと言う返事が小さいと、何度も反復させられたこともあった。
目の前の友人が言うには、声の大きさは決して小さくないらしい。ただ、どんなに大声を出しても、数メートルも離れるととたんに減衰してしまう。つまり言ってみれば、空気に溶け込みやすい声だということ。

まずこの声質が、子供たちを聞く気にさせるのかもしれない。幼稚園の先生などがよく使う手だが、騒いで注目しない子の注意を引きつけるため、わざと声を聞こえにくくしてしゃべるのと同じ効果があるのかもしれない。

2つ目の理由は、私の話す、妙に説明的で回りくどい文章にある。本題をストレートに伝えず、他のモノに例えたり、主題をわざと逸らしたりまた戻したり。
たとえばショートケーキを食べたことを伝えるとする。簡単に言えば「イチゴのショートケーキを食べた。とても美味しかった」と、これだけで済む。
しかしこれでは食べたことしか伝わらない。そこでイメージをたくさん付けるわけだ。「目が痛くなるほど真っ赤な色をしたイチゴ」「クリームで飾り付けられたスポンジが女王様のベッドのよう」「カチャカチャと音を立てるお皿」「スプーンには何が映る」
さらに「あまりの美味しさに思わず・・・」とくれば、次の句が気になりもする。

子供は言葉を聞くと、すぐにそのイメージが頭に浮かぶ。よってこのようにイメージがちりばめられた話ほど、気を引きつけられやすい。もっともただの無駄話なら「結局何が言いたいの?」と飽きられてしまうが。

会話に限らずブログにしてもメールにしても、言いたいことはできるだけ簡潔な文章で伝えるのが良いとされている。もし物書きのプロが私の文章の校正をしたら、きっと半分以下に縮められ「無駄な言い回しが多い」とかなんとか言われるだろうね。
だが肝心なことを忘れてはいけない。簡潔な文章で伝えたほうが良いのは相手が大人の場合。そのような文章は、木に例えるなら枝の無いまっすぐな大木だ。幹(話の本筋)がしっかりと通っていれば良い。

ところが幼い子供を楽しませる会話となるとちょっと勝手が違ってくる。幹は多少細くても良い、まっすぐじゃなくても良い。その代わりたくさんの小枝(分岐)があり、たくさんの葉っぱ(イメージ)が付いているような会話が、子供たちの心を引きつけるのだ。

ついでにもうひとつ。私は子供たちと話をするとき、最初に質問から入ることも多い。「宿題は何だった?」とか「最近なんか映画見た?」とか何でもいいのだが、それに対して返ってきた返事を、次の会話のテーマにすることがよくある。
これはその子の嗜好から会話が的外れにならないための手立てでもあるのだが、相手の返事に含まれる言葉を頼りに会話を移り変えていくというのは、会話をだらけさせないひとつの手法でもある。

つまり、楽しい会話の基本は「言葉の連鎖」だ。連鎖があるから自分がしゃべるだけじゃなく相手の話もきちんと聞くし、意外な本音が飛び出すこともある。妙に説明的だったり回りくどかったとしても、そこには不思議の国のアリス的な楽しさがある。

子供たちが私の話に聞き入る理由として、最初に言った声質うんぬんは思い込みかもしれないが、「イメージの葉っぱ」をたくさん付けた文章と「言葉の連鎖」をふんだんに使った会話というのは、あながち見当違いでもないだろう。これらを全部ひっくるめて、子供を引きつける話術というのかもしれない。
私が文章を書くとき、1、2行で済む内容で10行も20行も書いてしまうのは、このような子供たちに対する会話がすっかり癖になってしまったからだ。

去年、私のいとこの子である小学2年生の女の子は、初対面の私に色々と悩みを打ち明けてくれた。内容については明かせないが、最初に出会ったとき、寂しそうな表情がとても印象的だった。
私はこの子と公園のブランコに座りながら話をし、月の満ち欠けの例え話でこの子を笑顔にすることができた。この月の話も、たくさん葉っぱを付けた何気ない会話から、連鎖で生まれたものだった。
教訓めいた話も、ただ聞かされるだけでは納得しづらい。いや、それ以前に共感しづらい。だが会話の中で自然に流れるように生まれた例え話なら、小さな子の不安感をも和らげてあげることができる。

思春期の子を持つ親の中には、子供とほとんど話をしない人も多いと聞く。子供も、すぐに言い合いになるからと、親との会話を避けるようになる。
だがそれは、互いに話がストレート過ぎるからだ。太い幹だけの大木をぶつけ、用件だけ伝えれば良いというものではない。七夕の笹の葉のように、たくさんの葉っぱが付いたそよそよとした話をたくさんしてみるべきだ。
伝えなければいけないことは、たんざくにでも書いて吊るしておけば、自分で手に取るだろうから。
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by rukachas | 2005-11-12 21:54 | 子供の話 | Comments(0)