子供大好きRUKAの雑記帳
by RUKA
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一寸の虫にも50センチの墓
カブトムシこの前の日曜日、甥と姪をつれて、家から3キロほど離れたところにある大きめの公園へ出かけた。
そこでキャッチボールやサッカーをして遊んだのだが、結構カブトムシやカエルなどがよく見つかる公園なので、昆虫好きの甥っ子4号くんはボール遊びも手短かに、目を皿のようにして昆虫探しに没頭していた。

結局欲しい昆虫は見つからなかったが、木の根元でピョンピョン飛んでいるアマガエルを数匹ゲット。でもそんなに捕まえてもあとの餌やりが大変だということで、1匹だけを空き缶に入れて家まで持ち帰った。

家に着くと、親父が庭でカマキリを捕まえたとかで、4号くんのためにビニール袋に入れて置いてあった。
結局4号くんはこの日「アマガエル」と「カマキリ」、さらにこのあいだ親父たちが東北旅行したときに4号くんへのお土産として持ち帰った「3匹の沢ガニ」と、3種類計5匹の生き物をゲットしたわけだ。

ところがその日迎えにきた4号くんのママ、つまり私の妹が、これを見るなり「もぉ~困るよ~!!!」と絶叫。すでに家の中が生き物だらけなんだそうだ。カメにザリガニ、カブトムシにクワガタ、その他いろいろいろいろ...。(^^;)
ママいわく。「すぐ死んじゃって、もう今までに庭に何匹埋めたかわかんないよぉ~」
私はそれを聞いて、庭に埋めるのは誰がやっているのかと訊いたら、「全部あたしがやってんだよ~!」だって。

おいお~い、それじゃダメだろ!
子供が昆虫採集をしたり、虫や小動物を飼うことはそれなりに大切だ。世話する心を学ぶだけでなく、命の尊さと儚さを実感として学ぶことができるからね。
しかしそのためには、死んだら土に埋めて、お墓を作るところまで本人にやらせなきゃまったく意味がない。親が勝手に処分してしまったら、子供は何も学ばず、またすぐに元気な虫を飼おうとするだけだ。

デパートのカブトムシ売り場に、死んでしまったカブトムシを持ってきて、売り場のおじさんに「これ壊れたから直して」と言った少年がいた、という話をどこかで聞いたことがある。
最近は「ムシキング」という、昆虫を戦わせるアニメやらゲームやらが流行っているそうだが(4号くんもこれのファン)、哀れみのない飼い方だけはしてほしくないと思う。

生き物をオモチャのように扱ってはいけないのと同じように、たとえ虫でも、飼っているものが死んだらゴミのように扱うべきではない。最後にお墓を作るところまでやらせて、初めて飼ってきたことの意義が生まれるんじゃないだろうか。
庭がない家は、近所の公園の周りや空き地に埋めるしかないが、いずれにしても、子供たちが自分で土を掘り、埋めて、お墓を作るという行為は、生き物に対する最終的な責任なわけだから、絶対に飼っていた本人にさせなければいけない。(虫や小動物の場合ね)

・・・ということを妹に言ったら、分かったような分からないような表情をしていたが、子供の頃から動物の世話をしてきた妹だからこそ、つい自分でやってしまうのだろう。
4号くん、最後までちゃんと世話しろよ!三日坊主だったらオジサン怒るぞ~!(。・_・。)
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by rukachas | 2005-10-28 01:02 | 子供の話 | Comments(2)
キレる人間
怒り人に対しての「キレる」という言葉は、もともと「頭の働きが良い」という意味だったが、今ではすっかり「我を忘れるほど激怒する」という意味で使われている。
頭の血管(または神経)がプツンと切れる、ということからこう言うようになったのか、それとも諺の「堪忍袋の緒が切れる」からなのかは分からないが、最近の少年犯罪のニュースで頻繁に登場する言葉だ。

ちなみに「ムカつく・ムカムカする」という言葉は本来「吐き気を感じる」という意味だが、その昔、漫画で怒った人を描いたときに「ムカッ」という文字を入れていたことから、次第に一般にも怒りの表現として使われるようになった。「ムカッ」という言葉は多分「ムッとして、頭がカ~ッとなる」ということを表現していたのだと思う。

話を「キレる」に戻そう。「自分はキレたことがある」と言っている人は多いが、その大部分はじつはキレたことがない人だ。頭にきて暴れたりしたことを、キレたと言っているに過ぎない。何故ならそのとき手も足も、自分の意志で動かしていたはずだから。

キレるということが暴力の引き金として考えられている以上、そのときは通常の精神状態ではないとみるべきだろう。つまりキレるとは、怒りのあまり我を忘れるということ。
我を忘れるということは、自分の意志が働かないということ。麻薬などによる心神耗弱状態、あるいはオカルトチックに言えば、悪霊にでも取り付かれた状態と同じだ。当然記憶にも残らない。

その昔、俳優の山城新伍さんがテレビ番組でこんなことを言っていた。「狂気を演じられるのは理性である」。そのとおり、本当に狂った人間は、狂った演技などできないのだ。
では、人に暴力を振るう人間は狂っているのか?いいや、暴力を振るったことのある人は自分が狂っているとは思わないだろう。つまり大部分の人間は「キレる」という精神異常者的な行動を、怒りに任せて演じているだけなのだ。

だがもし本当にキレてしまう人間なのだとしたら、そのまま放っておいてはいけない。すぐに精神科に行くべきだ。最近キレキャラと称して、怒ることをギャグにしているお笑いタレントがいるので誤解されやすいが、キレるのは脳の異常であるということを認識してほしい。
これは刑法第39条(いわゆる、心神耗弱もしくは心神喪失の場合は罪に問わないという法)とも絡んでくる問題だが、最近のニュースでよく目にする「キレて教師に殴り掛かった生徒」や「キレて暴れた子供」の中で、実際に心神うんぬんに当てはまる者はほとんどいない。
皆、後先考えない短絡性、責任感の無さ(他人への依存性)、相手の気持ちを理解しない(コミュニケーション不足)が要因であり、それに至った原因は幼少期の育ち方にある。

「自分はキレたら何すっかわかんねぇ」などと言っている者は「自分は頭がイカレた異常者で~す」と言っているようなもの。自分で自分をコントロールできなくなる、そんな設定に快感など感じなくてもよい。
だが最も悪いのは、子供のワガママを容認している大人たちだ。大人は「キレる」ということを暴力行為の免罪符にさせてはならない。
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by rukachas | 2005-10-19 22:02 | ニュースの話 | Comments(0)
新聞の暮らし・家庭欄でも...
c0039181_23223537.jpg私は9月1日に書いた『子供に何を与えよう Part3(無邪気さを奪わない)』と題したコラムの中で、「子供の品のない発言や行動に関しては、他人に迷惑をかける行為でなければ大目に見よう」ということを述べましたが、驚いたことに本日の読売新聞朝刊に同じテーマの特集記事が載っていました。(写真クリックで拡大)

記事の内容は、私が述べたこととほぼ同じです。子供が「ウンチ」や「オチンチン」などと言ったときは頭ごなしに叱るのではなく、子供の気持ちを探りながら対応すべき、との内容。
この記事に書かれていた対処法の『「お母さんはそんな言葉好きじゃないよ」と諭したりするとよい。「オチンチン」などふざけて言ってきた際は「おしっこに行きたいの?」などさらりとかわすとよい。』という内容には共感しました。特定の言葉を使わないでほしいと親が思うのなら、この対応が非常に有効でしょうね。

世界一の発行部数を誇る新聞紙面で、このような子育て情報が取り上げられることは、正しい子育てを伝えていきたいと思っている者にとって、大変有り難いことです。
しかし記事中、一カ所気になる文章がありました。
『幼児は成長とともに多くの言葉を吸収していく一方、「バカ」「ウンチ」など、"悪い言葉"も口にするようになる。』という文の、「ウンチ」を"悪い言葉"としているところです。

「バカ」「マヌケ」「死ね」などは、たしかに「悪い言葉」です。誹謗、中傷、罵り、差別的な意図による発言など、いわゆる悪口は言わないようしつける必要があります。
しかし「ウンチ」「オシリ」「オチンチン」などは、これはモノの名前であって、悪い言葉ではありません。発言して他人を困らせることが悪いことなのであって、言葉そのものが悪ではないのです。これが悪い言葉だと言うのなら、オムツのCMの「やわらかウンチも大丈夫」というナレーションさえも良くないことになってしまいます。

『うんちっち』という絵本をご存知でしょうか。どんなときにも「うんちっち」としか答えないうさぎの子のお話です。今、全国の幼稚園で、この本の読み聞かせが流行っているそうです。子供たちはウンチやオナラという言葉に目を輝かせて聞き入っています。

「汚い物を表す言葉」と「汚い言葉」、「恥ずかしい物を表す言葉」と「恥ずかしい言葉」などをゴッチャにしてはいけません。それらをひっくるめて「悪い言葉」としてしまうと、下手をすると子供への言葉狩りや、悪影響を取り違えた不毛な教育論にも繋がりかねません。

何が「悪い言葉」で何がそうでないのか、大人たちはそれを把握しておく必要があるでしょう。この基準については、9月1日の『子供に何を与えよう Part3』にて述べているとおりです。
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by rukachas | 2005-09-05 23:26 | 子供の話 | Comments(0)
子供に何を与えよう Part3(無邪気さを奪わない)
与えるもの子供に与えるべきものとして、Part1では『子供の建設的な意欲を伸ばす環境を』、Part2では『物の価値を意識しやすい状況を』ということを述べてきましたが、最後のPart3は『子供の無邪気さを奪わない対応を』というお話。

先日の盆休みに私の甥っ子姪っ子たちが集まったときのこと。2階の部屋で幼い甥っ子がふたりで遊んでいるとき、ひとりが「チンコ☆☆☆~!」と言いました。(☆☆☆の部分は忘れてしまいましたが、たしか物の名前だったような?まぁよくある、クレヨンしんちゃん的なおふざけ発言です)
するともうひとりの子が「あ~、そういう言葉使っちゃいけないんだぁ~!」と、たしなめるように言ったのです。ふたりはいとこ同士なので親が違うのですが、このへんは普段のしつけの違いといったところでしょうか。
さて、このふたりのやり取りで危惧すべきところがあるとすれば、どこか分かりますか?(。・_・。)

「チンコ」などという下品な言葉を使ったこと?・・・いいえ、その言葉を、言ってはいけない言葉だと理解している点が問題なのです。「チンコ」とはご存知のとおり男性器を示す幼児語ですが「ウンチ」「ウンコ」などと同様、子供同士で遊ぶうえでこの発言には何の問題もありません。幼児や小学校低学年の子が下ネタや汚いことをあえて言うのは、この時期の成長過程における特徴でもあり、ごく当たり前の感情表現です。
(注意:世間一般に知られている女性器の通称の場合は、これは幼児語ではなく使われ方にワイセツ的な背景がありますので、子供だからといって無闇に発言して良いということはありません)

ワースト番組と言われながらも高い人気を誇っている「クレヨンしんちゃん」というアニメがありますが、これを笑いながら(ときに真似しながら)楽しく見ている親子もいれば、下品なので子供には絶対に見せない!としている親もいます。どちらが子供のために良くない行為なのかといえば、じつは後者です。
たしかに自分の子がこのアニメを真似て、下腹部にゾウの絵を描いて見せびらかしたり、人前でお尻を出すような子になったら困ってしまいますが、それは親が「恥ずかしさ」としてしつけるべきことであり、品がないから低俗だからと情報をシャットアウトしてはいけません。

同じような例ですが、このあいだ幼稚園児の甥っ子と夜に歯磨きをしたとき、少しでも楽しくしようと、最後に水で口をゆすぐときに、流しの端に小物を置いて「これを倒せるかな~」という遊びをしました。
私と甥っ子は口を水鉄砲にして、流しの端っこに向かってピュ~!(^з^)- - - - - ☆ もちろん周りには飛び散らないようにし、最後にはタオルで飛沫を拭きました。
しかしこんな行動も、中には「何やってるのっ!」「歯磨きでふざけないのっ!」と怒るお母さんもいるでしょう。ですがこれも怒るべきことではありません。周りが水浸しになったとか、せっかく乾かした食器が濡れてしまったとか、実際に困ることが発生した場合にだけ叱ればよいのです。

しかしある基準を設けなければ、親としてもしつけし難いですよね。では、親が子供の言動に対して「これはダメ!」と叱る場合の、最も大切な基準は何でしょうか?
それは「その発言や行動が、他人に迷惑をかけているかどうか(かけることになるかどうか)」です。
親が行うべきしつけや教育の基本はこれです。逆に言えば、子供の言動が誰の迷惑にもなっていないのなら、それを止めさせる理由は全くないということ。
また迷惑といっても、親がただ「下品だ、恥ずかしい、みっともない、ふざけるな」と、そう思うだけならそれは迷惑行為ではありません。子供の言動を抑え込む理由にはなりません。

しかし親からすれば、こんな意見もあるわけです。「普段自分の家でやって(言って)いると、外でもやる(言う)子になってしまう」
たしかに、自分の家ではチンコ発言も歯磨きのあとの口鉄砲ピュ~も問題なしとしても、友だちの家でやったら、そこの母親に「しつけがなってない子」と思われてしまうかもしれませんね。
でも私は思うのです。子供にプログラムでもしようとしているのですか?子供は知っていることはやってしまう、知らなければやらずに済む、そんな単純なものですか?・・・と。

親は自分の子を「低俗な言動をしない子、考えもしない子」にではなく、子供らしい下品さを持ち合わせたうえで「時と場所と場合、そして他人の感情を考慮できる子」に育てるべきなのです。それを教えることこそがしつけであり、子供の言動そのものを規制することがしつけではありません。

子供だけで遊んでいるときの下品な発言は構わないが、大人の人がいる場では言わないようにしようとか、図書館や店など、公共の場では迷惑になるので静かにしようとか、お母さんが恥ずかしがるから道路を歩くときは大声で歌わないようにしようとか、そういう、場所や他人の感情を考慮することを学んでいくには、まず普段の家庭内において、子供の無邪気さを奪わない環境が必要なのです。
どんなにおぼっちゃん的に育てようと、低俗な言動を一切させずに育てようと、子供たちは思春期にもなれば自ずと情報の波の中を泳ぎ始めます。そこでタガが外れるか、正しい選択ができるかは幼児期の育て方しだい。無邪気に発言したり行動できる環境で育った子こそ、自分の言動の意味や、それに対する他人の感情も理解できるようになるのです。

でももし、他人の前でも品のないことをしてしまったとしても、それはそれでイイじゃないですか。それも子供の無邪気さなんですから。それを許すのは大人の大らかさです。

ここをご覧のパパママさん方にも、公共の場での自分の子の発言に思わず赤面、という経験は幾度かあると思いますが、発言そのものを叱るのではなく、親を含めた周りの人の感情を考えなかったことを叱ってください。そして多少の品のなさは、他人をバカにしたり迷惑をかけるのでない限りは、大目にみてやってください。
そのかわり他人に迷惑をかける行為をしたときは、厳しく叱ってあげてくださいね。
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by rukachas | 2005-09-01 23:59 | 子供の話 | Comments(0)
子供に何を与えよう Part2(物の価値を感じさせる)
与えるもの子供(幼児)を連れて買い物に行ったとき、スーパーのお菓子売り場などで子供にお菓子をねだられることがありますが、このとき「買うのは1個だけ」と言い聞かせている親御さんも多いと思います。
しかし、このようなときはぜひ「1個だけ」ではなく「いくらまで」としてください。スーパーでもコンビニでも20円くらいのお菓子も売っていますから、80円まで、あるいは100円までとするのが良いかもしれません。

なぜ個数ではなく値段で制限するのかというと、店に並ぶものが商品という個別の価値を持ったものであることを、イメージとして理解させるためです。
買うのは1個だけと決めると、当然子供は自分が食べたいお菓子から、どれをより食べたいか(欲しいか)で買うものを決めるでしょう。しかしこれだと「一番食べたいものを選ぶ」という思考しか成り立ちません。つまり、物の価値という感覚が絡んでこないのです。

ところが、たとえば100円までと決めると、100円のお菓子を1個買うのも、60円のお菓子と20円のお菓子を2個買うのも自由なわけです。幼児自らおこなうこの選択は、目の前に並ぶ物が商品であるということを自然とイメージさせます。
計算できない子には親が「これなら2つ買えるけど、これだと1つしか買えないよ」などと指示してあげましょう。

これは幼児期の買い物ごっこのようなものですが、お金のやりくりの学習になるだけでなく、欲しさと価値(値段)のバランスを意識することによって、物を買うということを体感的に理解し、さらに買った物に対する思い入れも高まってくるのです。たかがお菓子でも、この感覚はとても大切なものです。

普段買うお菓子を1個だけと決めているお母さんは、ためしに一度、値段を決めてその範囲で自由に選ばせてみてください(ただし、普段と同じ価格帯で)。
きっと普段よりも、お菓子をダラダラと食べ続けることが少なくなると思います。一度に全部食べず、とっておくこともあるでしょう。

私は店で甥っ子にお菓子をせがまれたときは、必ず「◯◯円まで」という制限を作り、その範囲で自由に選ばせています。また、選び終わるまでは決して急かしません。コンビニで30分以上も待ったこともあります。
もちろんお母さん方が普段の買い物で、子供のお菓子選びにそんなに時間をかけられるはずもありませんが、5分は待つくらいのゆとりは持って欲しいですね。

お菓子は欲しがるたびに買い与えていてはいけませんが、おやつとしてどうせ買うのであれば、その買い方を工夫することもしつけのひとつです。
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by rukachas | 2005-08-28 21:28 | 子供の話 | Comments(0)
子供に何を与えよう Part1(退屈を感じる子感じない子)
与えるもの退屈を楽しむ。あるいは逆に、自分に退屈さを与えない状況を作りそれを楽しむ。現代において、これができる子はどれくらいの割合でいるのでしょうか。
大部分の児童にとっては、退屈は大人が思う以上に辛いものです。家の中で「つまんないよぉ~!」を連発したり、休日にお父さんに「どっか連れてって~!」とせがんでいる子も多いことでしょう。

何も面白いことがなく、退屈さで息が詰まりそう。悲しいほどにつまらない。これは子供にとってごく当たり前の感情ですが、じつは私はこの「子供の退屈さ」が、唯一共感しがたいものなのです。(理解はしていますが)
というのも、私は幼い頃から退屈さを知らない子だったからです。常に自分で何かをして、暇を作らない子でした。もし何もやることが無く暇だったとしても、それならそれで暇を楽しむことができる子でした。
だから私は、現代の子供たちの中に「つまらない」を連発しながら自分で何をするわけでもなく、ただ他人が面白いことをしてくれるのを、あるいは何か事が起こるのを待っている子を見ると切なくなります。何もせずつまらないと愚痴るのは、依存型の性格の表れです。

幼い頃の私なら、休日に何もすることがなく、友達とも遊べず暇なとき、一体どうしたでしょう。きっと外に宝探しに行ったことでしょう。もちろん本当の宝なんてあるはずがありません。周りを細かく観察したり、珍しい虫や草木を見つけたり・・・。自分が「おっ!」と思うことがあれば、その発見こそが宝探しの成果であり、十分に楽しめました。
でもこれは、なんでもない素朴な物事に感動する、ワクワクするといった心の土壌が無いことには無理な話でしょうね。退屈だと愚痴を言う子に「じゃあ何か作ってみたら」と言っても「めんどくさい」、「じゃあ外で遊んできたら」と言っても「面白いものが無い」と言われるのがオチ。

身近なものにワクワクし、自分であれこれ調べたがる子は、退屈で辛いなんて事はありません。考えてみれば、誰しも物心ついた頃はこうだったはずです。
では、育つにつれ退屈しやすい子とそうでない子ができる違いはなんでしょう?まぁ持って生まれた性格もあるでしょうが、ひとつの要因としては、子供が所有する物の量と、それを手に入れる頻度が関係していると思います。オモチャやテレビゲームなどを豊富に所有したり、買ってもらう頻度が高い子ほど、身近な生活周りに楽しさを感じない(見つけられない)子が多いようです。そしてこれが、飽きやすい、退屈しやすい、自分で事を起こさないということにも繋がるのでしょう。

ではこれを防ぐために、親は子供に対しどう接したら良いのか?
一番良いのは、誕生日やクリスマスなど、特別なイベントのとき以外はオモチャを買い与えないことです。おじいちゃんおばあちゃんが孫可愛さのあまり、頻繁にオモチャを買ってくるというケースもありますが、この場合も相手にハッキリと話をし、分かってもらう必要があります。ようは、本当に欲しい物のみ、我慢のあとにようやく手に入るという状況を作ることです。
また親も、たとえ安い品物であっても衝動買いはなるべく避け、必要のない物は極力買わないようにしましょう。物が無さすぎるのも考えものですが、家の中が無用な物であふれていると、子供たちの創造性を奪いやすくなります。

部屋には家族の手作り品を置き、物作りの楽しさを示すのが良いでしょう。そして、子供たちが身近な物ひとつひとつに目を配ることができるようなシンプルな配置と、それに関する親子の会話も大切です。
また、親が料理や物作りをする姿を子供に見せることも、子供の建設的な行動を促す意味で大切なことです。

全国のお母さん。買った物に頼らずとも我が家が楽しい、そんな家庭を作ってあげてくださいね。
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by rukachas | 2005-08-27 18:01 | 子供の話 | Comments(0)
アスレチックであせりチック
キズ先日6歳の甥っ子と地元の大きな公園に行ったときのこと。アスレチックの広場で遊んでいると、ひとりの男の子が突然私に絡み付いてきた。私の腰に手を回してギュッと抱きついたり、馴れ馴れしくしゃべりかけたりしている。あまりの人なつっこさに、最初は私を父親と間違えているのではないかと思ったほどだ。

ちょっと大阪弁なまりのヤンチャそうなその子は、話をするといろいろ教えてくれた。名前はゆういちろう君。今5歳で、今日はお父さんとお母さんと0歳の弟の4人で車で遊びに来たらしい。お父さんはどこ?と訊くと「あっちの池で釣りしてる」と言っていた。

私も甥っ子もすっかり仲良くなり、一緒にアスレチック遊具で遊んでいたのだが、この子があまりのヤンチャぶりで、所狭しと元気いっぱいに走り回るので、普段おとなしい甥っ子もそれにつられて走る走る、遊具も登る登る。
東京の妹からあずかっている甥っ子に怪我をさせてはならじと、私の行動にも否応なしに焦りの色が出てきた。

木製のアスレチック遊具を登って降りてまた登り、ふたりの後を追いかけながら遊具の階段を降りようとしたそのとき・・・足下がおろそかになっていたのか、見事に滑って下まで転落。ヽ(´・`)ノ
腕には直径20センチほどのデカイ傷を作り、血だらけに。しかしヤバかったのは胸のあばら骨。落ちたときちょうど背中の左側、心臓の斜め後ろあたりに全体重がかかる形で木材の角に打ち付けられたため、落ちたあとしばらくは声も出せなかった。とっさに「折れた!」と思ったほどの衝撃だった。
笑いながら駆け寄って来たふたりに対しては、引きつった表情で応えるのがやっと。しかしこんなことで子供たちのせっかくの良い雰囲気を壊してなるものかと、額にアブラ汗をかきながらライク・ア・スーパーマン。

それにしても、我ながらよく頑張ったと思うのは、もしかしたらあばらが折れているかもしれないほど息苦しい状態で、しかも腕も血だらけになりながらも、そのあと数十分もふたりの遊びに付き添ったことだ。腕が血だらけで胸のあばらを押さえながら前屈みになっている男が遊具のそばにいるのだから、そのあいだ他の親子が近付いてこなかったのもうなずける。(^^;)

ゆういちろう君には「おっちゃんダイジョブかぁ?きぃつけなあかんでぇ~。明日の朝、死んどるんやないかぁ?」と言われてしまった。いやぁマジ、このセリフで正直顔が青ざめたほど、状態としては最悪だった。
現在も背中の左側が紫色に変色しており、少し腫れている。息をすると痛むので、少し経過をみてから思わしくないようなら医者に行こうと思っている。

それにしても、子供を守るべき大人が子供の遊具で怪我をするとは情けない。(/д\)
私の親父が私にこう言った。「オレらは孫を連れていてもそんな怪我するはずがない。年寄りは初めからそんなこと(アスレチック)をしないからだ」
そう、そうなのだ。年配者は年配者なりにわきまえた行動をとり、無茶はしない。子供たちは多少の無茶もするが、そこは子供ならではの柔軟性。アスレチックで大怪我をすることは少ない。

問題は私のような中年だ。気持ちは若いつもりでいても、カラダは確実に老化している。20代のように振る舞いながらも20代のようにはいかない。動きも鈍くなり、危機回避能力だって落ちている。そしていざ怪我をすれば、その回復さえも鈍いときたもんだ。(ー"ー )
一番カラダを壊しやすいのは年寄りではなく、小さな子供を育てている中年かもしれない。そして、一番いたわりが必要な世代も、中年かもしれない。

公園で馴れ馴れしく絡み付いてきたゆういちろう君。キミの大阪弁なまりのキッツイ励ましが嬉しかったよ。(^-^*)
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by rukachas | 2005-08-19 22:15 | Comments(0)
夏休みに子供たちは...
夏休み昨日は上尾市の夏祭りだった。駅前のロータリーには、町内各地の神輿やパレードの一群が所狭しと集まって、威勢の良いかけ声をあげていた。沿道のギャラリーには浴衣を着ている女の子や、ハッピや半天を着ている男の子も多かったが、祭りの参加者に子供の数が少なかったのがちょっと残念。

ところで、もうすぐ全国の子供たちは夏休みに入る。おそらく8月頃には、私の甥や姪たちもやってくるだろう。6歳の甥っ子5号くんの妹はまだ赤ちゃんなので長期のお泊まりはできないが、5号くんと9歳の4号くん、そして4号くんのお兄ちゃんお姉ちゃんは、イナカへのお泊まりを楽しみにしていると思う。
私にとっての甥や姪、親父とオフクロにとっての孫たちは、私たちの活力源になっている。来たら来たで決して楽ではないのだが(気が抜けないという意味で)、子供たちの元気な姿が見られ、コミュニケーションがとれるからこそ、こちらも元気でいられるのだ。

私も盆休みまではゆっくりできないが、子供たちが来たら連れて行こうと、予定していることが2つある。ひとつは、みんなで遊園地に行くこと。ママの話だと、5号くんは小さな頃ディズニーランドで怖がって大泣きしたことがあるらしいが、もう6歳なのでたぶん大丈夫だろう。それに、大人の中に子供が自分だけだったときと、子供たちが複数いるときでは、楽しみの度合いも違ってくるはず。3つ上の4号くんとともに、また新しい経験を積んでいくことだろう。

そしてもうひとつの予定は、丸一日公園でゆったりとピクニック気分で過ごすこと。公園といっても遊具しかないような小さな公園ではなく、芝と木々が広がっている広い自然公園。上尾市だと、荒川沿いにある丸山公園が良さそうだな。そこで一日、自然を満喫しながら色々なことを学ぼうじゃないか!というイベント。
まぁこちらは遊園地と比べてかなり安上がりだが、楽しいことは山ほどある。頭の中に詰め込める思い出の量はハンパじゃないぞと。(^-^)
丸山公園には大きめのジャブ池と滝、長い水路があるので、夏場はたくさんの子供たちが入って遊んでいる。5号くんと4号くんのお母さんには、来るときに子供たちの水着を持ってくるようにと言っておこう。

アウトドアに長けた人がひとりでもいれば、川辺で釣りしたり山でキャンプしたりもできるんだけど、まぁとりあえずは遊園地と自然公園かな。
ただ、自然のあるところで一日のんびりと・・・という過ごし方は、都会に住んでいる妹や妹のダンナにはツライかもしれない。時間がもったいなく感じてしまうかもしれないね。いちおう退屈しないように、ビーチボール、テニスラケット、フリスビー、水鉄砲、虫取り網、その他もろもろ、駅前のデパートでそろえておこうとは思っている。あれも楽しそうこれも楽しそうと、いっぱい買ってしまうかも。

でも本当に大切なのは持っていくモノの量じゃなく、頭に詰め込んで持ち帰る、思い出の量だよね。(^-^*)
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by rukachas | 2005-07-18 20:59 | 子供の話 | Comments(0)
性善説と性悪説
天使?人は生まれながらにして善であるという「性善説」と、生まれながらにして悪であるという「性悪説」がある。たしか性善説は中国の孟子、性悪説は荀子によって唱えられた説だが、この相反する思想、はたしてどちらが正しいのだろう?

何が善で何が悪か、という解釈によって意見が分かれてしまうだろうから、ここでは他人を思いやる気持ちを善の心、他人を蔑んだり陥れたり、困らせようとする気持ちを悪の心とする。さて、産まれたての赤ん坊にあるのは善の心か、悪の心か?

私は若い頃は「人間は善悪どちらでもない完全無垢な状態で産まれてくる」と思っていたが、今ではどちらかというと性善説寄りではないかと思っている。
たとえば、ある赤ん坊が産まれた時から自分以外の人間との接触を一切断たれ、人の愛情を得ず、何の教育も受けず、ただロボット的に衣食住を提供されるだけの環境で育ったとする(昔、オオカミに育てられた少年の話があったね)。当然言葉も話せないし、野生の哺乳動物なみの行動しかできない子になるだろう。
そんな子がある日暴れまわったとしても、他人の姿を見て襲いかかってきたとしても、はたしてそれは悪心によるものだろうか?

たとえ自分を守る本能的な行為だったり、精神面から起きた行動だったとしても、そこに相手を蔑む感情(利害関係を理解するだけの知識)がなければ、いわゆる悪心とは言えないのではないだろうか。ちょうど、ライオンがシマウマを襲っても、それが悪事ではないのと同じように。

また、もし人間が映画「オーメン」のダミアン少年のように本能的に悪心を持つ生き物だとしたら、それは自らの生命自体を危うくすることにもなる。これは生物学的にもおかしい。よって、赤ん坊に悪の心は無いと、私は思ったわけだ。

では反対に、赤ん坊に善の心、つまり他人を思いやる気持ちはあるのかというと、これはあると思う。
10年以上前にあるテレビ番組で、何かの実験だったのかただのバラエティーショーだったのか忘れてしまったが、まだやっとお座りができるようになった程度の赤ん坊を10人ほどスタジオに集めたシーンが映っていた。大泣きしている子もいれば、キョトンとおとなしくしている子もいる。
そんな中、お座りして哺乳瓶をくわえていた赤ん坊が、となりで大泣きしている赤ん坊にその哺乳瓶を差し出したのだ。しかも明らかに「これあげるから泣かないでね」とでも言っているかのようなしぐさで。
私はそれを見て、こんな赤ん坊でも泣いている子を慰めようという気があるんだなと、番組の進行とは全く関係ないところで感心していたものだった。

こんなところが「産まれた時には悪の心は無いが、善の心は少しはあるかもしれない」と私が思う理由。
孟子が唱えた性善説とは意味が若干違うかもしれないが、少なくとも人間は育つにつれ、得てして善心よりも悪心のほうが身に付きやすい。善は学ぶものではなく、悪に染まらないことで保てるもの。そう考えると、環境って大事だね。

そういえば、今日は私の6番目の姪っ子の満一才の誕生日。きっと今頃は家族で誕生会でもやっていることだろう。
この子のお兄ちゃんも、早いものでもう6歳。今年も夏休みにはお泊まりにくるだろうが、とても頭の良い子なので、来るたびにその成長ぶりに驚かされている。
性善説もそうだが、子供が生まれながらにして持っている能力や特徴は、一生ものの財産ではないだろうか。
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by rukachas | 2005-06-25 21:25 | 子供の話 | Comments(0)
ようこそ子供たち
リョウとカラス金曜の夜に小学生の甥っ子4号くんと高校生の姪がやってきて、二晩泊まり日曜の夜に帰っていった。(母親が車で送り迎え)
週末になると突然この子らから「行ってイイ?」と電話がかかってくることが多いのだが、さすがに私もオフクロも親父も暇ではないので、予定が無いときにしかOKは出せない。今回は、夏休みまで待てないこの子たちの、先々週からの約束の日だった。

4号くんはいつも私と遊ぶのを楽しみにしていて、高校生の姪は、私やおじいちゃんおばあちゃんと話をするのを楽しみにしている。遊ぶといっても、公園でボール遊びや虫取りをしたり、家でテレビゲームをしたりアニメのビデオを見たりするだけで、遊園地やアミューズメントなど、いわゆるレジャー施設に行くわけではない。
そのうちこの子たちの両親、つまり私の妹夫婦らも交えて、みんなで一緒に東京ディズニーランドにでも行きたいなとは思っているが、とりあえず週末にやってきたこの子らに言えることは「田舎でノンビリしていきなさい」ってこと。

ドイナカではないが、おじいちゃんおばあちゃんのいる親の実家なのだから、普段とは違う生活を楽しんでもらいたい。近くに山も海も川も無い住宅地なので自然を満喫することはできないが、テレビやゲームの時間を制限して、大人と子供が一緒にいる時間を増やしたいし、何らかの共同作業も増やしたい。ともすれば食生活がジャンクフードに染まりがちな現代の子供たちに、おじいちゃんが育てた野菜でおばあちゃんがこさえた素朴な和食を味わってもらいたい。そしてなにより、しがらみを解いてリラックスしてほしい。

4号くんは普段人に絡みつくことはあまりないが、私にだけはベッタリと絡みついてくる。これは私が絡みつくせいでもあるのだが、スキンシップをタップリととることで、私に対し絶対的な安心感を得ている。だからこそ私が怒ったときには、相当なショックを感じるようだ。

じつは昨日の日曜日、3人で公園で遊んだあと帰ろうとしたら、4号くんがまだ帰りたくないとダダをこね、反抗心のあまり私の前で悪態をついた。その悪態が目に余るものだったので、私はその場で激しく叱咤した。
4号くんはうつむいて黙ったまま、涙を流して泣いた。私は少し突き放すように離れて歩いていたが、しばらくして待ち伏せするように立ち止まり、4号くんを引き寄せた。「もう困らせないでくれよ...」ジックリと言って聞かせると、素直にウンウンとうなずいていた。そのうちまた同じようなダダやカンシャクはあるかもしれないが、イイ意味で蓄積していくべきショックというのも、あると思う。

だが叱られた状態がいつまでも長引いてはいけない。まるで歌舞伎の早変わりのように、私もすぐにいつもの優しいオジサンに戻る必要がある。そして再びスキンシップ&コミュニケーション。こうして子供を笑顔に戻して、そこで初めて「しつけ」の一区切りとなる。

普段家でもしていることだろうが、スキンシップと笑顔のコミュニケーションをたっぷりと味わって、甥と姪は帰っていった。
「夏休みにまた来るからね~」と、笑顔で手を振りながら。
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by rukachas | 2005-06-13 23:02 | 子供の話 | Comments(0)